2012年01月30日
オバサン持ち

バッグの持ち方でも様々な持ち方がございます。
同じバッグや服装でも、
その持ち方ひとつで雰囲気がコロッと変わってしまいます。
いくら高級ブランドバッグでも、
ファスナーや留め金を開けたままダラッと持つと、
人格まで怠惰に見え、廉価版のバッグに見えます。
セカンドバッグの抱え方でも、
前方を上向きに持つか下向きにするかでは、
シャキッと具合が随分と違ってきます。
その多々ある持ち方のひとつの代表が、
オバサン持ち。
ハンドルのあるバッグを腕にぶら下げる、あの持ち方です。
特にダラッと見えないこともなく、
エチケット上も決して間違ってません。
皇族の妃殿下方も、公式の場で手袋を持ちながら、
このオバサン持ちをなさっておいでです。
さて、
問題 は オトコの場合 であります。
どんなかっこいい敏腕ビジネスマンも、
どんな肉食系男子でも、
このオバサン持ちするだけで
笑っちゃうくらいに緊張感がなくなり、
何と申しましょか…
ガクッと所帯っぽくなってしまうのでございます。
この男子のオバサン持ち、
最近よく見かけるようになってきたと思いません?
ひと昔のオトコ達は決してこの持ち方はしなかった。
キリッとバッグを指だけで持っていたものです。
と言うのも、
しようにもできなかったのです。
なぜなら、
男物のバッグは持ち手のハンドルが小さく、
手首を入れようにも入らないように作られているのです。
ドクターバッグにしろ、ブリーフケースにしろ、アタッシュケースにしろ、
男物バッグはすべてハンドルが小さく指のみで
軽々支えて見えるようになっているのです。
ですから、オバサン持ちは物理的に不可能。
ところが、この数年、
ハンドルのループが大きな鞄が出始めました。
はい、
トートバッグ でございます。
トートバッグはもともとは大きな氷のブロックを運ぶために作られ、
現在は一度に沢山の物を運べる構造となっています。
当然ながら持ち手ハンドルのループも大きくゆったり。
このトートバッグが、
スポーツや屋外用のカジュアルアイテムばかりだけではなく、
近頃ビジネスシーンにも台頭しだしてきたのです。
そこで、
ビジネススーツにトートバッグの
男子オバサン持ちが急増しえてきたのです。
オバサン持ちは確かにラクでございます。
指だけでバッグを支えるだけでなく、
腕全体で重量を支える のですから、軽く感じます。
それだけではありません。
もう一つの大きな利点がございます。
空いた手で何か持つ事ができます。
何か作業をする度に、
いちいちバッグを床に置かなけばならないのがオトコ物バッグでした。
財布や定期券を取り出したり、手帳を見たりする度に、
床や地面にブリーフケースを置いているビジネスマンを良く見ます。
でも、
トートバッグなら腕にハンドルを突っ込んで、
歩きながら同時進行で作業を行えます。
特に携帯電話、それもスマートフォン。
スマートフォンはどうしても両手が必要な厄介な携帯。
ブリーフケースやアタッシュでは煩わしいことこの上なし!
しかるに、
トートバッグオバサン持ちは便利この上なし!
でもねぇ、
このオバサン持ちはやっぱり
オバサンの専売特許なのです。
バッグを持ちながら他の作業を行う、
この“ながら作業”はオバサン方の得意技。
煮物をしながら、炒め物をしながら、洗い物ができる。
電話をかけながら拭き掃除をしながらテレビを見れる。
化粧をしながらタバコが吸える。
ともかく、
オバサンは日常の生活では
利便性、即効性、迅速性を追求する動物でございます。
なので、腕にバッグを入れながら、
携帯電話、手袋、財布、ハンカチ、紙袋を同時に持つ事ができ、
混乱することなく迅速に手っ取り早くお買い物をなさいます。
なので、
殿方が腕をバッグのハンドルに入れた瞬間に、
目先の行動に走るオバサンぽさが目について、
所帯っぽく見えてガクッとなります。
所帯の匂いがするオトコって、なんの魅力も感じません。
オトコは社会で生きる戦士でなくてはなりません。
オトコのスーツは鎧、バッグは格納庫なのでございます。
鎧兜の戦士が格納庫をオバサン持ちすれば、
もうそれだけで戦いにボロ負けしそう。
で、
ワタクシの場合でございますが、
そりゃあ~当然
オバサン持ちでございます。
オトコ社会で勝ちたいなんて思ってもいませんもの。
敵も味方も自分!
乙女はそれでヨシ!
投稿者 tadashi : 10:18 | コメント (0) | トラックバック
2011年12月26日
ジュエリーの幻影

師走も押し迫るこの時期、
大して忙しくもないのに気ばかりが焦り、
気分が高揚するのであります。
気分が高揚するとやたら恋しくなるのが、
光モノ…
はい、
ジュエリー~でございます。
買う、買わないは別として、
宝石オタクのワタクシとしては
ジュエリーショップのウィンドウに
ピタッとへばり付いてため息ばかりついるのが、この時期。
ゴージャスな溢れんばかりの光の洪水を眺めているだけで、
気分も高まり年の瀬のウサも忘れ、
スカッと浄化します。
ウィンドウショッピングと言えど、
馬鹿にできません。
気になる宝石となると、それこそ穴が空くほど見つめ、
1時間くらいはその場から離れません。
いつぞや、
東京の上野で開かれたダイヤモンド展では
ハリーウィストンの25カラットの
ダイヤ指輪に一目惚れ。
泊まり込みで何時間も何日間も食い入るように見て、
ガードマンから注意を受けたほどでございます。
そのジュエリーですが、穴が空くほど見つめるうちに、
あらためてよ~く分かった事がごさいます。
違うのです…
輸入ブランドとメイドイン日本とは。
明らかに異なる雰囲気なのです。
確かに、昭和の頃とは日本製ジュエリーは
数段に洗練され進歩したデザインとなっています。
しかし、
いくら進歩したと言えども、何かが微妙に違うのです。
その微妙な差は、
目が肥えてしまうほどに大きな格差となって映ってしまいます。
それは、いったい何だろうといつも考えます。
雰囲気が違う、空気感が違うと言ってしまえばそれまでなのですが、
その雰囲気や空気って何なんでしょう。
確かに、日本製ジュエリーは美しい。
メレダイヤを敷き詰めたパヴェセッティングなどは、
精緻巧妙に配置され、それこそ見事なもので、
非常に清潔感に満ちています。
でも、それだけ。
美しいだけ。
清潔なだけ。
それ以上の何かが見いだせないのです。
美しいのだけど、
艶やかではないのです。
艶やかの「艶」っていう字は
色が豊って書きますよね。
その色とは、味わい、奥深さ、官能的、
ラグジュアリーさ、パワーであると思います。
その艶やかさが外国のブランドに比べ、
決定的に欠けているのではないかと考えています。
ヨーロッパの高級ブランド、
特にパリのヴァンドーム広場に鎮座おわす
ヴァン・クリフ、ショーメ、カルティエ、ブシュロン等の
ジュエリーとは明らかな格差があるのです。
一言で言うなら、
歴史が違う、伝統が違う、コンセプトが違います。
彼らは19世紀後半から20世紀前半の
王侯貴族を相手に商売をやってきました。
当時のジュエリーを見ると、
お金も暇も教養も美意識も桁外れに持ち合わせている
階層相手のコンセプトですから、
制作時間、制作費、利便性を完全度外視して作られ、
絢爛たる風格を持っています。
特に、
1910年までのエドワーディアンスタイルは
宝石史上最も贅沢で繊細にして艶やかな時代です。
現代の彼らの制作したジュエリーを見ても、
その過去の栄光の大時代を未だに夢見ているのです…
そう、
過去への幻影です。
幻影が彼らの宝石を
風格ある艶やかなジュエリーとしているのです。
しかし
現代のクライアントは残念ながら王侯貴族ではありません。
一部の富豪と大多数の小銭持ちの一般庶民です。
現代の富豪ですから、
貴族のようにお金はあっても暇はありません。
俄か成金ともなると、
焦りもあるので、その美意識も怪しいものです。
小銭持ち一般庶民となると、
経済的にギリギリなうえに利便性も求めてしまいます。
利便性を追求すると低俗なジュエリーとなります。
それでも、
ヨーロッパブランドのジュエリー達は、
それらに迎合することなく、
幻影の中で生きているのを深く感じてしまうのです。
日本製のジュエリーとの格差はそれです。
宝石を必要とした大時代もなく、
ヨーロッパ製品に終始追いつけ追い越せとしてきたのですから、
仕方ないかもしれません。
しかし 追い越そうとしても、
異国の文化だけは絶対に追い越せないのです。
文化とはそういうものです。
モノマネで贅沢らしさを追求してきたのだから、
幻影なんて存在しません。
それが日本製ジュエリーの限界なのです。
金額となると、同じクォリティー、カラット数では
日本製に比べ外国ブランドは、何倍もします。
しかし、それでもワタクシが
ヨーロッパブランドを買ってしまうのは、
あの第一次世界大戦前夜の
ヨーロッパ大貴族時代の
幻影欲しさゆえなのでございます。
幻影はつかみ所がありません。
それだけによりいっそう艶やかな輝きを発します。
それにしても、
幻影はお高くつきますワ~。
投稿者 tadashi : 10:03 | コメント (0) | トラックバック
2011年11月30日
紫の話
様々の色の中でも、紫は特別な色です。
まず、その色の形容がとても難しいのです。
青なら爽やか、ひんやり。
赤なら情熱的やパワフル。
黄色でしたら、健康的で元気。
ピンクは乙女チックでカワイイ。
と簡単に形容する言葉がポンポン出てくるのですが、
紫となると急に言葉に詰まってしまいます。
何と表現すればよいのやら。
ひじょうに複雑で深みがありデリケートな色でございます。
自然界においても非常に少ない色で、
青の空や水の色、太陽の黄色などと簡単に見つけにくい色です。
なので、ますます表現に困る曖昧な色です。
そこで、よく言われるのが、
神秘的な色。
なるほど
お坊さんの袈裟や、
皇室の衣冠束帯の高位の色にはこの紫色を用いており、
確かに高貴で神秘性のあるように見える色です。
ところで、色には色相三原色があります。
赤・青・黄の三つです。
ご存知のようにこの三原色に黒と白が加わることにより、
ありとあらゆる無限の色が出来上がります。
単純な話が、黄と青が混ぜれば緑。
赤と黄が混ぜればオレンジ色です。
そのオレンジ色に若干の黒が混じれば茶色、
白が混じればベージュです。
で、紫となるとお分かりのように、
青と赤が混ぜれば出来上がります。
しかし、
この二つの取り合わせって、不思議だと思いません?
だって全く異なる性格の色だからです。
情熱の赤、清涼感の青。
火の赤、水の青。
温度差も性格も全く異なる正反対の二つの色です。
だから訳が分からない混沌とした性格の色となってしまうのかもしれません。
そこで、形容し難い神秘的な色…紫となるのでしょう。
ところで、
先日友人との会話で面白い事を発見しました。
「秋の野菜って、美味しいよね」と言うと、
「うん、やっぱり夏の紫外線をたっぷり浴びてるもんね」と。
やっぱり、そういう事よね、
と相槌をうちながらも、ん?と思ったのです。
紫外線… 紫…?
そう言えば、秋の野菜や果実にやたら紫色が多い。
ブドウ、イチジク、サツマイモ、アケビ、ナス、
みんな紫色じゃございませんか。
春や夏には、トマト、イチゴや春野菜のように、
赤や緑の原色が圧倒的なのに対し
秋は紫色が多いのに驚きます。
もちろん紫外線は波長が短く肉眼では捉えられない不可視光線ですが、
秋の野菜等が、
可視光線の最も近い紫色に染まっている
というのも面白いではありませんか。
もし、
それが科学的におかしいというならば、
なぜ秋野菜に紫色が多いのか、
専門家の方に教えて頂きとうございます。
やっぱり、紫は摩訶不思議な神秘の色。
そして
大好きな色でございます。
投稿者 tadashi : 15:24 | コメント (0) | トラックバック
2011年10月28日
「イサカイオンナ達part2」~元旦の宅配便~

ワタクシに限らず、
幼い頃のお正月は待ち遠しいものです。
もういくつ寝ると♪と、
本当に指折り数えておりました。
これほど待ち遠しかった理由の一つには、
元旦に向けてのあの慌ただしい準備があります。
クリスマスを終えるやいなや、
歳神様を迎えるために、先ずは大掃除。
普段は見向きもしない、台所の水屋の隅っこから、
窓の縁まで一家総出で磨き上げます。
そして、きれいになったとこで餅つき。
当時、我が家はおかき屋を営んでましたので、
幸い餅つきはお手のもの。
臼と杵で優雅につくのではなく、
工場の大きな餅つき機で、
バタンバタンとあっという間についてしまいます。
そうこうしているうちに、
ついにやってくる大詰め、大晦日。
鏡餅の飾り付けをはじめ、
床の間の飾りつけ、お節料理の下拵えやら、
晦日そばの用意やらでてんやわんやです。
当時、我が家に限らなかったと思いますが、
下着、パジャマ、湯上げ(今でいうバスタオル)、
歯ブラシ等の直接に肌身につける物はその日で総替えとなり、
真新しい気分で正月を迎えてました。
そして、テレビの紅白歌合戦も始まる頃 、
家長の最後の仕事となります。
それは、
元旦祝い箸の箸袋の名書きです。
女系の我が家の場合、家長は祖母となるので彼女が筆を取ります。
祖父の信次郎、父の慶次郎、兄の仁、ワタクシの正と進んだ後、
母の一江、そして自分の名であるヤエノと筆で丁寧に書いていきます。
そして、お手伝いさんや、
里の実家に帰れない寮に住み込んでいる
工場の職人達も元旦の朝は同席しますので、
その人達の箸袋も含め、
総数20袋以上を一枚一枚丁寧に書いていくのです。
それらの書き終えた箸袋は紅白の水引がかけられ、
畳の上にずらっと並べられ翌朝の出番を待っていました。
そんな具合で、
大晦日の除夜の鐘が鳴っても、
家の中の女達はバタバタと走り回って
慌ただしいことこの上ない様相でした。
この半月にも及ぶ元旦のための準備は、
いやがうえにもお正月を待ち遠しくさせ、
指折り数えさせてしまいます。
最近になって、昔ほどの盛り上りがないのは、
この煩わしくも楽しい準備が省略、
簡略化されてしまっているからです。
さ~て、いよいよ迎える元旦。
昨夜までの喧騒はどこへやら。
信じがたいように凛とした
おごそかな空気に家中が包まれます。
あの一夜明けた時のみんなの立ち居振る舞い、
表情までがコロッと厳粛となり、まさにハレの顔となる、
その変わりようが妙に不気味だったのを子供なりに覚えています。
襖を外された、
二間続きの居間に銘々膳が20台ほど行儀良く並べられ、
元旦のお祝膳の始まり、始まり!
「おめっとうさん!」
「おめっとうございます!」
祖母の一声で、
家族も寮の職人さんも無礼講で一斉にお節料理に箸を向けます。
さぁ、
そこで…毎年決まったように、
ひとりの長老の職人さんのが尋ねるのです。
「若奥さんは…?」
そう、若奥さん、つまり母のお膳の前だけは、
座布団だけがポツンとあるだけで、毎年不在なのです。
前回のエッセイで書いたように、
あの冬の朝の衝撃的な事件以来、母はいかなる理由があっても、
姑である祖母とは決して口きかず、食事も共にしませんでした。
たとえ、年の始めの最もめでたい席であっても。
職人さんの質問で、一瞬、家族の中で空気が凍りつくのですが、
祖母は何食わぬ顔で
「風邪ひいて寝込んでますねん。」
と平然と言ってのけます。
事情を察している職人さんはすかさず
「へぇ~正月早々、
そりゃ~えらいことでござりますなぁ…」
この二つ会話によってその場の空気は
元の和やかな空気にもどり、
一件落着。
何も知らない新米職人さんも、
とりあえずは納得の表情です。
毎年毎年、繰り返す、この会話の可笑しさ!
「…正月の度に風邪ひくわけないやろに…」
とつぶやきそうになり、
笑いをかみ殺すのに必死でした。
そうこうしているうちに、宴もたけなわ、
皆がほろ酔い加減となり、
座が賑やかなった頃合いを見計らって、
祖母が隣に座っているワタクシにそっと耳うちします。
「こぼん、おてしょう持ってきなはれ。」
〈☆注釈 こぼんとは、こぼんちゃんの略で、大阪の商人の家では長男を大ぼんちゃん、
次男をこぼんちゃんと呼んでいました。
おてしょうとは、小皿の事で、お手塩と書きます。〉
台所からおてしょうを持ってくると、祖母はお節のお重から、
クワイや蒲鉾、煮しめやらをおてしょうに盛り付け、
昨夜祖母自身で一江と書かれた祝い箸を添え、
小さな声で
「これ、お母はんに持って行きなはれ。」
と囁くのです。
待ってました、ワタクシの出番です!
二階の母の部屋に行くと、
まだ寝間着のままの母が布団の横に座って、
ぼうっと宙を見つめていました。
「これ、おばあちゃんが…」
とおてしょうを差し出すと、
涙を溢れんばかりに流し、
じっと祖母の盛り付けたお節を見つめるのです。
10年間繰り返された元旦行事…
このお節宅配便がワタクシの元旦恒例行事でございました。
役柄としては、
結構いいとこ取りで、
楽しくもオイシイ役どころです。
大晦日の夜、
絶対に同席しないと分かりながらも祝い箸に母の名を書き、
せめて元旦のお節を食べてもらいたいと願う祖母の心情。
そして、
そのおてしょうに盛り付けられたお節と箸袋を見て、
涙を流す母。
これを同時に見れるなんて、
最高の宅配役です。
階下に戻り、祖母に
「お母はん、泣いてはったよ」
と祖母に言うと、
それを聞いてまた 涙…
これっていったい何ナン?
結局、二人は仲良しなんと違うのん!
と子供なりに感じて、
可笑しさを通り越して、滑稽ですらありました。
戦禍をくぐり抜け、
会社を守りぬいた経営者としての自信。
しかしながら子に恵まれなかった祖母の哀しみ。
一方、母は家事や会社の事は苦手でも、
二人の男子を産み育てたオンナとしての自負。
複雑そうに見えて、
実は小さなメス社会中での単純な
意地の張り合いでございます。
オンナの情の部分では、
お互いの心中はしっかりと理解し
認め合えていたのではないでしょうか。
その証拠に幼きワタクシの前では、
お互いの誹謗中傷を絶対に漏らさなかった!
さして大きくもない家の中で、
一言も口きかず10年!
その意地の持続力にも敬服するばかりです。
今は二人とも、あの世へ。
結構楽しく喋りまくっているのではと願うばかりでございます。
投稿者 tadashi : 10:44 | コメント (0) | トラックバック
2011年10月19日
睡蓮報告Ⅳ

大変長らくお待たせしました。
やっと…やっとの事で咲きました、睡蓮ちゃん!

肥料をやったり、日なたに鉢を移動したりと、精魂込めてお世話したかいがございました。
もう、我が家は祝賀ムードに包まれております。
とは言え、日ごと冷えゆく秋。
1日でも長く楽しませて頂きとうございます。
投稿者 tadashi : 10:13 | コメント (0) | トラックバック
2011年09月29日
イサカイ女達

寒い冬の早朝、祖母の起きた後の暖まった布団で、
うつらうつらと一人寝ていると、
台所方向からオンナ2人の甲高い悲鳴。
と同時にその2人が
泣き叫びながらワタクシが寝ていた居間に
なだれ込んで来ました。
薄目を開けて見ると、
まず先頭が祖母、
それを追いかけるように母が祖母の背中にすがるよう追いかけ、
何やら泣きじゃくりながらあやまっている様子。
その後ろには祖父と父が呆然と立ちすくんでいました。
幼稚園に通ってたの頃の、年の暮れの衝撃の記憶です。
何があったのかワタクシには分かりません。
四人の朝食中に何か
とんでもない事態が起こったのは確かです。
2つ上の兄はその朝食の場で
祖父の隣に座っていたらしいのですが、
後年なってからの彼の曖昧な記憶による証言では、
母の方向から祖母に目掛けて、
突然お箸が飛んだらしい…
ワタクシの掴んでいる情報はそれだけ。
なぜ箸が宙を舞ったのか
それまでにどんないざこざあったのか、
今もって知る由ありません。
ともかくこの日の朝を境に、
10数年にわたる嫁姑の壮絶なるバトルの火蓋が
切り落とされたのでございます。
それ以降、
別居するまで祖母と母が話をしたところは
一度も見たことがありません。
廊下をすれ違っても、
お互い目線をずらし一瞥すらしません。
まるで、
そこにお互いが存在しないようなすれ違いぶりで、
それはそれは
見事な無視っぷりでございました。
ですのでバトルと言っても、あの朝以来、
口論や小競り合いになったとかと
具体的に何かが起こったわけではありません。
ただひたすら
沈黙の戦い。
ふつふつと湧き上がるやり場のない
情念だけの冷たいバトルでした。
夕食も当然みなバラバラで、
その順序も厳格に守られてました。
会社の付き合いや接待のある父が
まず一番最初で夕方早い目の食事を一人で軽く取ります。
今になって思うに、
接待というのは表向きかつ言い訳で、
おそらくあの
息のつまりそうな家から
一刻も早く外出したかったのでしょう。
父の次は祖父母が、そして母、
最後に家事を一切を仕切ってたお手伝いさん
という4時限コースで区切られていたのです。
ですので、
夕方1時限目始まる夕食スタートは
延々5時間にも及び、
4時限目終了は10時をまわります。
我々兄弟は2時限目以降に適当に誰かと食べていました。
兄は母と食べることが多かったようでしたが、
ワタクシは祖父母やお手伝いさんと食べることが多かったです。
この4時間割りコースを引き起こした張本人である母は、
食事の時もジリジリと
追い詰められているような雰囲気を醸し出し、
それを察知していたワタクシは、
その空気に堪えられず、
母と一緒の食事をあえて避けていました。
このような具合でしたから、
一家全員揃っての食事は
決してあり得ませんでした。
たとえ、
めでたき元旦の祝い膳の時でも、
母の膳と祝い箸だけがポツンとあり、
その前は
空の座布団だけ。
(この辺りは非常に興味深い話があるのですが、
また機会をみてエッセイにしたいと思っています。)
さて、
毎日毎日がこのような閉塞感に満ちた息苦しい家庭で、
さぞやつらい幼年期であったかと想像なさっていることでしょうが、
さにあらん。
結構楽しいものでございました!
だって、
オンナのイサカイって、
どこか滑稽で面白いですもの。フフッ…!
必死で戦っていても、
そのもがき苦しんでいる姿は
何だか笑ってしまうくらい哀れで滑稽。
「大奥」も「源氏物語」も「紀の川」も「香華」も
悲壮感が漂えば漂うほど、滑稽さも増します。
オトコの戦いのように、
領地の奪い合いの大義名分のもとに殺戮もいとわない、
なぁんてことはあり得ません。
政財界の裏の世界のように末代まで禍根を残すような根深さもない。
嫁姑のイサカイの大義名分なんて、
夫と子供の取り合い、
あるいは冷蔵庫の中の領地奪い合い程度が引き金で、
命にかかわるものではありません。
たわいもない部分に執念を燃やし、
燃え尽きることなくあっけなく戦いは終えます。
十数年経って、祖母が亡くなった葬儀の日、
出棺の時に真っ先に
棺桶にすがって泣きじゃくったのが我が母。
この光景ってあの日の朝と全く同じゃないですか
で!デジャヴ~!
祖母が棺桶に変身しただけのことで何の変わりもありません。
祖母の死と母の棺桶への謝罪でチャン、チャン。
すべてが終了っ。
あの十数年に及ぶ戦いってなんだったんだろう…
葬儀の時高校生だったワタクシは、
その滑稽さに笑いをこらえるのが必死でございました。
イサカイ女逹の光景は、
実に愉快極まりないもので人畜無害。
どうせオトコ共は蚊帳の外。
高みの見物といたしましょう。
投稿者 tadashi : 12:50 | コメント (0) | トラックバック
2011年08月26日
山椒の話

前回が大嫌いなネギのお話でした。
なので、
今回は大好物のお話でございます。
ワタクシの3大好物というのがございます。
大根おろしと生姜に山椒。
この3品にご飯さえあれば、
ワタクシ一生涯どこでも生きていけます。
その中でも格別の好物が
山椒でございます。
ネギが嫌いになったのにも、
きっかけとなる思い出があるように、
好物にもきっかけとなる記憶があります。
生まれて10才くらいまでは、
祖父母と両親、兄の6人暮らしでした。
三橋家は代々実子にめぐまれず、
祖母は養女として三橋家にもらわれ、祖父はその婿養子。
その間にも子に恵まれず、父も養子として育てられました。
なので、
私達兄弟は久々の実子となるのです。
その頃三橋家では、
おかきを中心とした製菓会社を営んでました。
決して大きな会社ではないのですが、
高度経済急成長の時代にあやかって結構景気は良かったようです。
社長が祖父、専務が父という役職でしたが、
実質は
祖母が絶大な力を持っていました。
日露戦争、日清戦争、太平洋戦争という
激動の時代をくぐり抜け、女手ひとつで会社を創立し、
ずっと借金ゼロで経営を貫いた人でしたから、
何せ強い!
まさに明治気質を絵に描いたような人でした。
当然、会社だけではなく
家庭の中でもその力は絶大。
妻としても、母としても、姑としても、祖母としても
それはそれは完璧で、
嫁イビリも堂に入ったもんでした。
祖母が家にいるだけでも、
その一挙一動に
家の中にピリピリした空気が流れていたのを覚えています。
そんな祖母でしたが、ワタクシだけには例外で、
異常なほどの可愛がりようでした。
お互いの相性が良かったのか、待望の嫡子だったのか、
ともかくワタクシにとっては情の深い優しい
ごく普通のおばあちゃんでした。
目の中に入れても痛くないような溺愛ぶりで、
どんな我が儘もきいて甘やかしてくれるわけですから
当然こちらも大好きになってしまいます。
特にワタクシは特別扱いされ、
家族の中でも優越感を感じとって調子に乗っていた
イヤな子供だったかと思います。
そんな祖母ですが、
一年に一度大奮闘する日がありました。
山椒炊きです。
毎年、春になるとアク抜きした大量の山椒の実を、
両手で持つのが精一杯くらい大きな釜で
醤油炊きする日があるのです。
普段は女帝のような毅然とした人でしたが、
この日ばかりは誰の手も借りず、
汗をかきながら一心不乱に山椒と闘ってました。
その祖母の姿をこちらも一日中眺めていました。
山椒の力強い香りと
醤油の煮詰まった香りが、
祖母の手によって春の光の中で家中に漂う…
ワタクシの幼い頃の強烈な思い出です。
その炊き上がった大量の山椒は
一家の一年分。
小さな蓋つき陶器に小分けされ、
翌年の炊き出しまで
絶えず食卓のすみに置いてありました。
それから今日に至るまで、
ワタクシ
山椒を欠かしたことはございません。
海外に旅行に行く時も
瓶詰めして持参いたします。
パリのカフェで
パンに山椒をつけて食べるのも
おつなものです。
さて、
ワタクシがいかに山椒が好きかという例をひとつ。
鰻の老舗に「竹葉亭」がございます。
そちらの鰻はもちろん大変に結構な美味でございます。
が、
もっと好きなのが
ここの鯛茶。
あたたかいご飯に鯛のお刺身とゴマだれを乗せ、
ほうじ茶をかけてお茶漬けとして食べるのですが、
これが鰻に劣らず大変美味!
しかし、
この鯛茶にはもうひとつ楽しみな物があります。
その鯛茶に添えている
薬味の実山椒。
竹葉亭の薬味の山椒は
いつもフレッシュでピリリ度も高く、
舌のシビレ具合も絶妙!
この実山椒食べたさに
竹葉亭に通うほどです。
一度なんぞ、あまりに山椒が美味しく、
ご飯と一緒に食べきってしまい、
肝心の鯛をすべて残してしまった覚えがあります。
もちろん、
我が家の冷蔵庫には実山椒、花山椒、青山椒と
山椒づくしの大量ストック。
山椒が主食と言ってもいいほどです。
山椒と温かいご飯のコラボ…
この至福のシビレは
無条件に祖母に可愛いがられた
思い出のシビレでもあります。
サンショウウオは、山椒の匂いがするので、
その名が付いたとの事ですが、
ワタクシを切ったら
同じく山椒の香りが
プンプンする事でございましょう。
と、
これまた山椒嫌いの方にはどうでもよいお話でございました。
投稿者 tadashi : 10:43 | コメント (0) | トラックバック
2011年07月25日
ネギのお話

ご存知の方もいらっしゃるでしょうが、
ワタクシは
大のネギ嫌いでございます。
味はもちろん、
あの香り、形、色、名称まで
大嫌いでございます。
要するに、
ネギと聞いただけで
背中がゾッとするのです。
鍋にちょっと入っていたり、
刻んで添え物にあってもだめ。
鍋全部、
その料理全部まで食べられません。
まさに坊主憎けりゃ
袈裟まで憎いのであります。
従って、
ワタクシの行き付けのレストランや料理店では
周知してもらっているので、
どんなことがあっても
ネギと遭遇することはありえません。
すき焼きはネギの代わりにウドが入ります。
ネギ好きの方とは、絶対に鍋をご一緒できません。
焼き鳥のねぎまは当然ネギ抜きとなりますので、ま、だけ。
ネギのぬたあえは、酢味噌のみ。(これはこれで美味しい)
素うどんもネギ抜きとなると、ペラッと蒲鉾一枚だけ。
実に色気も愛想もない料理となりますが、
ネギの香りがするよりは、よほど清涼感がありおいしゅうございます。
しかし、ネギは嫌いでも、
玉ねぎ、アサツキ、茗荷は大好きときてるから、実に勝手。
タチが悪いネギ嫌いでございます。
ここまでネギを憎悪するのには、
ちゃんと理由がございます。
今は昔のワタクシが小学低学年の頃、
ざっと半世紀前です。
その頃の大好物はグリコのキャラメルでした。
当時、甘さたっぷりのキャラメルと言えば
グリコぐらいしかなかったかと思います。
しかもオマケ付きとくれば、
子供にとってはハマる要素満載。
学校から帰宅するや、グリコをわしづかみ。
口の中でとろかしながら、
オマケで遊ぶのがワタクシ幼き頃の至福の時でありました。
まさにグリコ中毒。
グリコなしでは生きていけません。
道頓堀のあのネオンは
ワタクシの偶像崇拝の対象ですらあったのです。
ところで、
ワタクシには
二つ違いの兄がおります。
見た目も性格も嗜好も正反対。
何もかもが真逆の人格で水と油。
そんな兄はグリコなんぞには目も向けません。
目を向けるのは…
ネギ!
なんと
ネギをおやつ代わりに食べていたのです。
学校から帰るやいなや、
ランドセルをほりだし、まっしぐらに台所へ突進。
新聞紙に包まれたネギをわしづかみすると、
塩壷にネギを 突っ込み、
根っこからむしゃぶりつくのでございます。
ワタクシがグリコ中毒なら、
兄はネギ中毒。
なので、
兄からはいつも
ネギの臭いがプンプンしておりました。
幼い子供がネギをおやつにしている不気味な光景、
そしてあの都市ガスが腐ったようなネギの匂い…
小学生の子供が
超辛党なんて信じられない!
そこへもってきて
兄は学業優秀で、
いつも学年トップクラス。
この学業優秀の起因は、
三橋家ではネギということになっておりました。
従って、
「ネギを食べないから、
ただしは成績が上がらないのよっ…」
と母に叱られるわけです。
味や香りだけではなく、
ワタクシのオツムの程度までネギが原因とあらば、
この世で最も憎悪する
食物となるのは当然。
一生涯ネギをなんぞ口にするものかっ、
と子供心に誓い今日に至っております。
さて、
先日久々に串カツを友人と食べに行ってきました。
串カツの面白いのは、
中身が見えないところ。
芳ばしいコロモに包まれた具は、
口に入れるまで正体を現しません。
具当てクイズ的面白さがあるのも楽しみです。
その分、味覚のみで
その具の旨みが適正に判断できます。
察知のいい皆様は、
話の展開がそろそろ見えてこられたかと思います。
コロモに包まれた、
ある具材を口に入れた瞬間、
今まで経験したことのない、
芳しい香りと甘味のある奥深い味わい!
「何これっ!?美味しい~っ!」
友人は勝ち誇った顔で一言、
「ネギでっせ」
……その瞬間、芳しい香りと甘味は、
腐った都市ガスの匂いとなり、
幼き頃の兄の口臭と
成績の悪夢が瞬時に蘇ったのです。
そんなモンです。
食わず嫌いもトラウマも
そんなモンでございます。
いまだに兄の顔を見るとネギに見えます。
ネギを見ると兄の顔に見えます。
てなワケで、
「雀百まで踊り忘れず」のたとえの如く、
ワタクシのネギ嫌いは百まで揺ぎありません。
今月はネギ好きにとってはどうでもいい、
ネギのお話でございました。
投稿者 tadashi : 13:20 | コメント (0) | トラックバック
2011年06月24日
ニッポン不思議列挙

不思議な事が
この世には山ほどあります。
知りたい事も山ほどあります。
そんな様々な疑問にも、
インターネットを検索すると、
極めて簡単にポンと答えを教えてくれます。
ひと昔前なら辞書や参考文献を数日かけて調べたものも、
今ならクリックポンです。
簡単至極、労力なしで答えが出ますので、
当然ながら頭を素通りします。
つまり記憶に残りません。
ワタクシのように脳ミソ容量の低い人間は、
やっかいな行程により、かろうじて記憶を留めることができるのだと、
最近つくづく感じます。
さて、さて、
そんなクリックポンであろうが、
手間暇かけた辞書や文献であろうが、
容易に回答を得られない不思議な雑学が山ほどございます。
特に、
我が国ニッポンの不思議。
西洋から見れば東の果ての小さな島国、
しかも300年にわたる鎖国が育んだ文化文明は、
極めて異色で摩可不思議。
すでに西洋文化に洗脳された
我々の脳ミソには容易に答えが出ません。
今回はそんなニッポンの
不思議文化の数々を列挙してみました。
これらの疑問はもちろん個人的偏見に基づいてますので、
クリックポンでも文献でも答えが出にくいものばかり。
どなたか簡単明瞭に教えて頂きたく存じます。
其の一
長い着物の歴史の中で、
襟Vゾーンに日本人はなぜ
ネックレスやペンダントを置こうとしなかったのか。
これは洗練され高度な美意識だと確信しますが、
ほんの少しの時代でも
置いてみることすらしなかった意識の強さが不思議。
それと同じく、
指輪にもイヤリングにも興味を抱かなかったのも
本当に不思議。
中国では耳輪、首輪、指輪も何でもござれで、
貴族達はもちろん、一般にもしっかり普及していたのに、
海を渡ることはなかったのです。
簪や帯留め、箱せこ、根付けなどのアクセサリーに
あれだけ高度な芸術品があるのに、
これらの輪系の装身具に
なぜ見向きもしなかったのか…。
其の二
女物の着物になぜ身八つ口があるのか。
身八つ口とは脇の下にある切り口です。
諸説色々とあります。
通風説なら、男物にも必要。
授乳説のためなら、
かつての日本画にも残っていてもいいはずですが、
いまだにそんな風習の絵を見たことがありません。
襟元を整えるため手を入れる説もありますが、
これも男物にあっても便利なはず。
いずれにせよ、
男物に存在しないのが
本当に不思議な切り口です。
其の三
日本画にはなぜ影が存在しないのか。
輪郭しか描かない日本画の不思議です。
湿度が多く、光と影の境界が明確ではない日本の気候風土に
大きく影響されているかと思いますが、
一年中そんな天気でもあるまいし。
カラッとした初夏や冬の情景のもとでも、
光と影を追及しなかった日本画の不思議さに
いつも考えさせられます。
実はこのことはメイクにも言え、
日本の伝統的メイク…歌舞伎の女形や舞妓、芸者…には
影がありません。
アイカラーやチークカラーはあっても
アイシャドーやチークシャドーは無いのです。
其の四
長唄や清元を聴いていると、
三味線のピッチが緩いのに気付かされます。
西洋音楽のオーケストラでは
ピッチがドンピシャなのは常識、
と言うか
ドンピシャでなければなりません。
そんな音程を聞き慣れている我々の耳には、
我がニッポンの伝統音楽に戸惑うこともしばしば。
三味線だけではなく、唄もそうで、
人間国宝クラスの唄い手にしても、
かなりのユラユラ度音程に驚きます。
確かにユラユラは妙な色っぽさや情感を感じるのですが、
行き過ぎると不安になるのも確か。
西洋の平均律では計りしれない奥深さがありそうで、
とても不思議なピッチ合わせです。
其の5
其の一にも関連しますが、
明治まで日本ではなぜ
宝石に見向きもしなかったのか。
特にダイヤモンドやエメラルド、ルビーなどの輝石。
当然、それらは日本の島国からは産出されなかったからでしょうが、
それならヨーロッパ諸国だって同じこと。
出島を通じて輸入された
西洋の宝飾品の存在も知ってたでしょうし、
それらに見向きもしなかったのも不思議です。
簪にダイヤモンドの輝きがチラチラしているのを
想像するだけでも美しいと思うのですが。
其の三にも通じることですが、
やはり光と陰に意識がなかったからでしょうか。
其の六
風鈴や鹿威し(ししおどし)の繊細な音を楽しむ文化があるのに、
お茶や吸い物、蕎麦やうどんを
ズルズルすする音に寛容なのは何故?
茶道では、お茶を最後に飲みほす時、
ズルッと一発かましなさいますが、
あれって文化なんでしょうか。
蕎麦のズルッ音にしてもうるさいだけで、
とうてい美音とは思えません。
本人が気分がいいだけで、
放庇とまではいかないまでも、
ゲップと同ランクの音色です。
そう、
風鈴も鹿威しにしても
興味のない人間とっては
騒音以外の何ものでもありません。
音に関しては、
ニッポンは意外と自己中だったのかもしれません。
とまあ、挙げればまだまだございますが、
とりあえずは今回はこのぐらいで。
どうでもいいような雑学ばかりですが、
これらはクリックポンでは
容易に答えが出ないものばかり。
しかしながら、
我がニッポンの民族性の本質を知るうえで
とても重要なことを秘めているはず。
嗚呼、
考えると夜も眠れなくなるのでございます。
投稿者 tadashi : 15:02 | コメント (1) | トラックバック
2011年05月27日
オトコ肌

オンナの肌の白いは七難隠す
と申します。
七難とは諸説ありますが、
火難、雨水難、羅難、鬼難、
…とワケ判らない仏教用語がずらりと並びます。
が、この場合は違います。
単純に、
欠点を隠すという意味合いでございます。
欠点というのは、性格が多少悪かろうが、
お顔がブサイクであろうが、みすぼらしい格好であろうが、
とりあえず顔が白さえすれば
それなりに見える
という事でございます。
これは、正しい。
白い肌は、一見か弱く見えます。
白く透き通るような肌は、
実際に角質層も薄く毛細血管までが見えてしまいます。
なので、オトコはそんな肌を見ると
性格までが奥ゆかしく、
か弱き女性だと思ってしまうのです。
メスよりは優位に立ちたいと思うのが、
オスとしての性(サガ)でございます。
オトコは弱いオンナが大好きです。
守ってあげたいという、王子本能がそうさせます。
でも、
これは大間違い。
白いオンナがか弱いとは限りません。
全く関係ございません。
白い肌もひと皮むけば、
赤い血が沸き立っています。
21世紀にもなるのに
オトコは未だこの事実に気付かず騙されているのです。
全くオトコは学習能力がありません。
アホです。
そんなアホさ加減を知ってか知らずか、
オンナはUV対策命懸けで肌を紫外線から守り、
白い肌でオトコ心を鷲掴みします。
さて、今回はオトコの話。
オトコの肌はオンナに比べ黒め。
それは根本的に角質層の厚さや
皮脂の出方に大きな差があるからです。
特殊な場合を除き、
オトコの肌はオンナに比べ強靭です。
強靭な黒い肌は、戦いにも有利で
あらゆる環境にも適応できます。
夏の日差しで褐色に日焼けしたサーファーや、
日焼けサロンにせっせと通うホスト達がモテるのはそのせい。
実際、紫外線や潮風に堪え忍んだ肌は、確かに強い。
鎧のような肌、
それがオトコ肌でございます。
オトコの黒い肌は七難隠します。
多少醜男でも、背が小さくとも、小心者でも、
肌が黒けりゃそれなりに力強く見え、
命懸けでオンナを守ってくれそう…
フフッ
そーんな、
わけがありません!
これまた全く関係ございません。
オトコと違って
オンナはそんな事でごまかされません。
あさ黒い褐色の肌や筋肉を
自慢たらしく誇示しているオトコでも、
アホはアホとよくわかっています。
オンナはオトコに比べ、
はるかに学習能力が高うございます。
体育会系のあさ黒オトコの見た目の力強さと、
生活力とは
なんの関係もありません。
体育会系の力強さは、
棚作りをしたり、引っ越しの時に多少役立つ程度。
筋肉は40代で必ず衰えて
何の役にも立たないのが現実でございます。
断じて申しますが、
オトコの生活力は、
オツムの良さと知性、教養であります。
黒い褐色肌も40過ぎる頃から、
シワたるみと混在し、薄汚くなるだけ。
そこに、
加齢臭や歯槽膿漏臭の追い討ちが加われば、
ただの黒い無用の長物と成り果てます。
これはワタクシの個人的偏見でございますが、
40代過ぎて黒い肌を誇らしげに歩いている
チョイ悪風オトコは、
なんとなく信用しておりません。
な~んとなく…です。
ところで、
最近久々に素晴らしい肌力を持ったオトコを
テレビで見ました。
宮城県知事、村井嘉浩氏。
白い肌にピンク色の
高揚感のある頬。
一般的には白く薄い肌は強靭な肌とは言えませんが、
彼の場合はさにあらん。
皮膚組織がきちんと構築された角質層。
非常に強いパワーと清潔なオーラを放した肌です。
この前代未聞の非常事態にも、
冷静な対応と忍耐、リーダーシップで立ち向かって行く姿には
感動的ですらあります。
陛下が被災地に見舞いに行かれた折り、
その背後で微動たりもせず直立不動で立っていた姿に
彼の知性と教養、品格すら感じます。
オンナと違い、
オトコはファンデーションでごまかせない分、
パワーや知性がダイレクトに伝わります。
力あるオトコには、美しい肌力が備わっているのを
彼は証明してくれました。
世のオンナ方、
オトコの肌をじっーと観察なさいませ。
そこにはパワーがあります。
しかし、
パワーと言っても千差万別。
嘘、ハッタリのない清々しいパワーの
美肌オトコをゲットなさいませ。
投稿者 tadashi : 14:00 | コメント (0) | トラックバック
2011年04月27日
浪花の足袋の物語

前回に引き続き、足袋のお話でございます。
たかが足袋、
されど足袋の
奥深~いお話を一つ。
10年ほど前、
よく通っていた料亭がミナミにありました。
料亭と言ってもたいそうな門構えでもなく、
数席のカウンターと小部屋が3つぐらいある、
割烹と料亭の中間くらいのお店です。
とはいえ、ミナミの界隈では、
イチゲンさんはとても暖簾を
くぐれない風格を持ってます。
店内は昭和40年代の上質な空気が流れるしつらえで、
一枚板のカウンターの内側が畳、
外側が椅子という変わった作り。
仲居さん達はその畳側に正座して接待やお給仕します。
小さな坪庭には江戸時代の石の道標や、
品のいい松が植えてあったりして、
なかなかの雰囲気を醸していました。
掛け軸や器、調度品、すべてに目が行き届いた
格調のある料理店でした。
しかしながら
京都の老舗料理店にあるような見高さや冷たさはなく、
いかにも大阪らしく、
ホグレのあるお店です。
実はワタクシがその店に通いつめていたのは、
そのしつらえや調度品、料理が目的ではありません。
女将さんです。
女将さんに会いに行ってました。
ワタクシの母と同じでしたから、
当時は70代半ばだったかと思います。
非常に見識と教養の高い方で、
いかにもミナミの女将さんといった風情の素敵な人ながら…
おもろい人なんです!
大阪っぽいと言うか、
吉本っぽいと言うか、
東京にも京都にも絶対にいないタイプでございます。
「イラッシャ~イ!」と、
戎さまのように満面笑顔で迎えてもらえ、
きめ細かいサービスでもてなしていただけるのですが、
歯に衣着せぬ物言いで、はっきりと批判や助言も仰る。
にもかかわらず、
人を不愉快な気持ちにはさせない、
本当に不思議なキャラクターの持ち主です。
そして何よりも、
お軸のこと、茶碗や骨董、香道、芸能のことなど
幅広い教養をお持ちでした。
ワタクシはそれをご教授頂くために、
足しげく通っていたのです。
お店からの帰途は、
おいしい料理と彼女の話で、
お腹も心も豊かな気持ちで
いっぱいになっていました。
そして、
彼女自身の装いも素晴らしく、
落ち着いた色合いの紬が多かったようですが、
決して地味になりすぎず、
パッと明るいオーラを醸していたのは
彼女のお人柄と趣味の良さのせいでしょう。
ただ、何度か通っているうちに、
ある一点から
目が離せなくなってきたのです。
それは、
足袋です。
前回のエッセイでも述べましたように、
足元の足袋は重要です。
その方の人格、教養、緊張感、清潔感が
皺ひとつない足袋に表れてきます。
こんなに素敵な女将さん、
その足元の足袋があまりに意外だったのです。
大きく、だぶついた足袋…!
冗談でしょ、嘘でしょ、
あり得ないでしょ!
あれだけ完璧な装いなのに、
足袋だけが異質なほど緊張感がない…。
人格と足袋がバラバラです。
不思議な光景でした。
その足袋に気付いてからは、
行くたびにその一点から
目が離せなくなってしまったのです。
ほんのワンサイズ小さくするだけでも、
ずいぶん印象が変わるであろうに。
進言しようかどうか、
迷いに迷ったのち、半年ぐらい経った後、
思いきって切り出しました。
「あのぅ、以前から気になってたんですけどぅ」
「なんでっしゃろ」
「足袋…女将さんの足袋なんですけど、
もうちょっと小さい足袋やったら、
もっとシャキッと格好ようなるかと思うんですけど」
「ひゃ~、
えらいとこに気ィつきはりましたなぁ。
せやけどなぁ、
よう聞きなはれやミツハッさん」
「あ、はい」
「足元までピシッと決めてたら
大阪では商売できまへんで。」
「はぁ?」
「足元までスキのう、きちーいんと決めはるのは、
京都の女将のするこちゃ。
大阪でそんなことしたら、
窮屈過ぎて、誰も寄りつかへんでっせ。」
「はぁ…」
「スキをうまいこと作らんと。
お客はんより見高うしたらあきまへん。
お客はんはスキに入ってきはりますねんで、
ミツハッさん。」
この時、
ワタクシの目からウロコが
パラパラ音をたてて落ちていたのに違いありません。
浪花の商売の核心です!
阿保になって儲けろ、
と我が父もよく申しておりました。
大阪とはこういうとこでございます。
東京では、阿保になったら、
ほんまに阿保やと思うようです。
大阪では賢い人ほど阿保になれます。
やっぱり女将は賢い!
彼女から様々なことを教わりましたが、
この足袋の一件がワタクシにとって最も胸に響いた教えです。
お稽古事のように行儀作法を見せる時は
ピシッとした足袋。
商売の時はホグレのある足袋。
ケースバイケースで微妙にサイズを変える。
これぞ浪花の商人(あきんど)の知恵!
東育ちのお方には、
決して真似できない高度な芸当でおます。
足袋の奥深~いお話でございました。
投稿者 tadashi : 10:16 | コメント (0) | トラックバック
2011年03月28日
足袋の話

前々回が手の話、
前回が手袋の話。
と、なると
今回は足袋の話でございます。
ご存知かもしれませんが、
ワタクシ趣味で日舞をしております。
趣味と言っても、下手くそながらも35年以上続けており、
当流派ではいつの間にか古株となってしまって、
名誉師範名取なる実力不相応な称号を頂いております。
日舞は着物も大事でしょうが、
意外と重要なのが、
足袋でございます。
たかが足袋とお思いでしょうが、
微妙なサイズやクオリティーの違いで、
踊りに影響が出てしまいます。
着物や袴に隠れてなかなか見えにくい部分ですが、
チラッと見える足先で、
その踊り手の品格や実力が感じてしまう
大事な要の部分でもあります。
足袋を選ぶとき、
最も気を付けているのがサイズ。
ドンピシャのジャストオンは当然ですが、
まずは
前踵の部分にシワが起こらないことが
絶対条件です。
とは言え、
小さ過ぎると、いやなシワが甲やコハゼに出て、
いかにも小さ過ぎる印象を与えます。
立ち座りの所作の時に踵や足指に負担がかかり、
動きに焦りが出ます。
しかし、
小さ過ぎる方がまだましで、
大きめのサイズで少しでも余裕があると、
足元に緊張がなくなり、
小回りもきかず踊り全体までもが緊張感が無くなります。
ワタクシの足の形は手の形と同様で、
不細工極まりなく、
典型的な幅広、甲高です。
既製でもこの形にフィットするのが無く、
どこかに必ず歪みが出てしまいます。
やはり別注オーダーとなり
東京の足袋専門店でお願いしております。
紙の上に素足を乗せ、
まずは鉛筆で足全体の輪郭を取ります。
そして
親指の深さ、甲の高さ、足首の周り等を
厳格に採寸した上で、一ヶ月位後にサンプルが出来ます。
それで、再度微調整した上で、
さらに一ヶ月後に完成品が届きます。
別注ですから、
コハゼに自分の名取名がひらがなで打ち込まれているのが、
なんとも嬉しいです。
で、
届いたらそのまますぐに
履けるわけではありません。
足袋裏の糊づけを
取らないとなりません。
畳の上では問題ないのですが、
所作板等の板敷きでは、滑ってしまい、
スッテンコロリとなってしまいます。
最初の糊取りは、
まずは足袋を履いたまま入浴します。
そして、丁寧に糊を洗い流して、
絞りきらずそのまま陰干しすると、
自分の足形のまま乾かせます。
これで初めて自分の足袋が完成。
あぁ邪魔くさいっ!
でも、
邪魔くさいことをするのが
お行儀でございます。
ぴったり収まった足袋は本当に動きやすく、
かつ適度な緊張感も生じ気分もよろしい。
足袋というと、
西洋におけるソックスにあたると思われがちですが、
ちょっと異なります。
靴とソックスの中間ぐらいでしょうか。
ソックスよりは足を保護し、
靴よりは床の感触が伝わります。
バレエのトゥシューズに近いかもしれません。
草履や下駄はサイズがかなり曖昧です。
それだけに
足袋のサイズはきちんとしていないと
歩き方までだらしなくなります。
以前、歌舞伎の勧進帳の弁慶を
市川海老蔵丈を観た時のこと、
花道から出てきた弁慶の
その足元の美しいことに驚いた記憶があります。
ぴーんと張りつめた、
緊張感のある足元と
それを覆っている真っ白の足袋!
非常に品格の高い足元でした。
その目映いばかりの足袋の美しさは、
今でも目に焼き付いてます。
もし、あの爪先にほんの少しの皺でもあれば、
劇場全体までの空気まで変わってたかもしれません。
それぐらい踊り手にとっても
重要な要素のアイテムです。
最近の若い娘達の着物姿を見ていると、
美容室で着付けをしてもらっているので、
それなりに見えるのですが、
足袋がみんなデカ過ぎる。
ブカブカの足袋は、気持ちまで緩んでいるようで、
立派な晴れ着も台無しでございます。
ルーズソックスと同じ感覚で履いているのでしょうか。
着物という衣類は、洋服と違い芯地がありません。
裾もただ合わせただけでヒラヒラと無防備。
それだけに
足元を揺るぎないようにしなければなりません。
すべては足元から!
投稿者 tadashi : 10:20 | コメント (0) | トラックバック
2011年02月28日
手袋の話

前回は、ワタクシの指についてお話をしました。
短くバランスの悪い小さな手でも、
適材な仕事もあるもんです。
世の中まんざらでもありません。
しかし、この小さな手、
もう一つ悩みがあります。
それは手袋。
手袋のサイズがないのです。
日本全国津々浦々、
あらゆる百貨店を探しても、
ワタクシのサイズは
小さ過ぎて見つかりません。
S・M・Lと大まかに分かれている場合は、
当然Sですが、
それでも親指が余ってしまいます。
子供サイズならあるかもしれませんが、
クオリティの部分でプライドが許せません。
レディースの場合は
逆に手の甲と指の太さが大きすぎて、入りずらく、
また妙に先端がか細く女性っぽい仕上がりなので
軟弱な手先となってしまいます。
と、言うわけで、
適当なメンズサイズでその場をしのいでおりました…
というのが、
今から20年前までの手袋生活。
20年前、パリを訪れた時から
手袋の概念がコロッと変わりました。
パリのエルメス本店に行った時の事のお話でございます。
何か旅の記念に、
自分にご褒美でも買おうと店内をうろうろしておりました。
クリスマス前の事で、
買い物客や観光客でごった返す店内。
その1階の片隅に、
ぽつんと客が誰もいない売り場がありました。
手袋のコーナーです。
手袋専門とおぼしき初老のマダムの店員と目線があってしまい、
思わず売り場の前に立ってしまいました。
売り場と言ってもウインドウには
ほとんど手袋が置いてません。
「ボンジュール、ムッシュー」
「ボンジュール、あのぅ、手袋を探しているのですが…」
と、下手くそ英語でこたえました。
「どのような?」
と、来たもので、
日本全国津々浦々探してもどこにもない、
夢の手袋の詳細を思い切って言ってみました。
「色は黒、スエード地で内縫い、裏地は無し、
しかもこの極小サイズ…」
内縫いはワタクシの憧れです。
小さな手ですから、
外縫いだと縫い目が目立って、しまりなくなってしまいます。
ところが、その当時メンズは外縫い大はやりで、
内縫いなんてものはどこにもありません。
しかも、裏地がなく、
ピタッと収まるサイズで黒いスエードとくれば…
ある訳がありません。
日本中どころか、
世界各国津々浦々探してもある訳がありません。
ノン!と当然言われると思っていた
そのマダムの口から出た言葉は
「ウイッ!ございます。」
うそ~っ!
冗談っしょ!
下の引き出しから、
おもむろに出してきたのは、
確かにワタクシが所望した
黒、スエード、内縫い、裏地なし…
あり得ないっ~!
でも、あり得たのです。
問題はサイズ。
これはムッシュのサイズと出されたのは6ハーフ。
それまで使ってたのが7ハーフ。
というか、
日本において7ハーフが最も小さいサイズでしたから、
それで我慢してた訳です。
大きなサイズがヨーロッパであるのは分かるのですが、
小さなサイズも豊富に取り揃えているなんて、
さすがパリ!
さすがエルメス様!
で、その6ハーフの手袋を
はめてみようとするのですが、
小さすぎて、なかなか入らない…。
「小さ過ぎるので7サイズでお願いしたいのですが、」
と言うと、
すかさず
「ノン!これがムッシュのサイズで問題ありません。」
と答えるやいなや、
まずはワタクシの肘を手でつかみ、
机の上にドンと立て置きました。
そして6ハーフをギュッと突っ込み入れ、
しかもワタクシの指の間に
鉛筆のような木の棒をトントンと叩いて、
何とか強引に押し込みました。
「ほら、これがムッシュのサイズでございます。」
と艶然たるフレンチスマイルで
でかしたとばかりに仰る。
「革は伸びます。
しかも裏地が無ければきれいにフィットし、
数日でジャストあなたのサイズとなります。
コインをつかめなければ手袋ではありません。
ご心配なく。」
へぇーなるほど、
コインや電車チケットをさわるたびに手袋を取ってましたが、
これならコインもきちんとつかめます。
革の手袋というより、
手術用ゴム手袋のような感触です。
手袋とはこういうものか、
という感動で胸いっぱいになりました。
暖かくするだけが手袋ではありません。
はめたままきちんと日常の作業ができることも
手袋の条件の一つです。
即刻、購入決定!
ヨーロッパの、パリの、
エルメスの懐の深さを思い知らされました。
ホテルに帰って、
その黒い小さな手袋をベッドの上に置き、
悦に入って眺めておりました。
それからは、ローマの手袋専門店メローラや、
日本ではオーダーで小さな手袋を入手してます。
オーダーといえば、
彼方の貴族の人達の話によると、
手袋とは完全な消耗品で
ワンシーズンの間に何枚も
とっかえひっかえ消耗するそうです。
それだけ、はめたまま作業をするので、
傷み易いということでもあります。
従って彼らの手袋は
ダース単位でオーダーなさるようで…。
ちょうど、
日本の足袋のような感覚ではないでしょうか。
ワタクシのように、1枚の手袋を、
ボロボロになるまで何年も使うのとは、
えらい違う話です。
ところで、
ワタクシにとってのフィット手袋の定義は、
手袋をはめたまま携帯メールを打てること
でございます。
できるかな?
是非、ご自分の手袋で一度お試しあれ。
投稿者 tadashi : 11:40 | コメント (1) | トラックバック
2011年01月13日
指

自分の身体の中で、最も目にするのは
手指です。
顔を見るには鏡が必要ですし、
その他の部分はわざわざ脱衣しなければなりません。
が、
自分の指は何か作業をしていると、
必ずや視界に入ってきます。
食事をしていても、炊事をしていても、
字を書いていても、メールを打っていても、
掃除洗濯、何をしても自然と目に入ってきます。
特にワタクシの場合、
ヘアとメイクの仕事で、趣味はピアノと日舞ですから、
目の焦点は直接指に合わせなくとも、
いやが上にも視界のどこかに存在してます。
ピアノといえば、
こんなにピアノに向いていない指も
珍しいのではないでしょうか。
筋肉、関節とも
華奢なわりにはしっかりしているのですが、
なにせ硬い!
高校時代、
ハノン、チェルニー総動員で
血の滲むような練習で指を柔らかくしても、
ちょっとサボるとすぐ
コチコチになってしまいます。。
2ヶ月かけて柔くした指トレも、
2日サボると即効戻る、
形状記憶指であります。
そして、
手の甲と指のバランスが実に悪い。
甲の長さと指の長さが1:1の同比。
これは困ったもので、
粘着力があるデカいフォルテ音は
しっかり出るのですが、
小回りが効きません。
ショパンの石膏手像を見ると
各関節の距離が手の甲に比べると非常に長い。
特に親指の付け根の関節から第2関節までが長く、
いわゆる甲短長指型。
親指コンパスが長いと、
親指の支点で繰って行くフィンガリングの時、
非常に有利で小回りも大回りも効きます。
舞踊でいえばバレリーナのような脚型で、
跳躍やリズミカルな運動に向いています。
ところが、
甲長短指のような我が指の場合、
重心が鍵盤に下がり
打鍵力や安定感はあっても、
スピード性能にかけ、
すぐにミスタッチをおかしてしまいます。
いわゆる農耕民族的指型。
しかも、致命的なのが
指が短い!
オクターブの長さがぎりぎり限界で、
ショパンやラフマニノフのように
9度や10度がバンバン出てくるような曲では、
もう譜読みの段階でギブアップ。
中学生の頃から、
「そのうち大きくなったら
指も伸びて来るでしょう…」と
先生に溜め息混じりに言われ続けたものの、
背は伸びても指のサイズは一向に変化なし。
そんな訳で、
才能は無くともプロになる事だけを夢見てた我が少年期は、
ピアノ修行からさっさと身を引きました。
変な手、困った手、
小さすぎる手と言われ続け10年。
自分の手にはコンプレックスを持ち続けていた
10年でもありました。
ところがです、
趣味で始めた日本舞踊、
お稽古を始めた初日から、
家元に真逆の事を言われたのです!
「あぁ、いい手をしているねぇ…
めったにない小さい手!」
いきなりの褒め言葉。
短すぎる指、変な手と言われ悩み続けた10年、
その正反対の言葉は、
まさに救世主!
着物の袖から出てくる手指は、
可能な限り小面積なほうが、しおらしく見え、
また全身のバランスもいいようです。
我が手指の価値感を
ゴロッと変えてしまいました。
所変われば品変わる、
文化変われば手も変わる…
のでございます。
さて、
プロのメイクの場合、
どんな指が有利か。
まず
長さは関係ありません。
ですが、
太過ぎる指は不利です。
ファンデーションを塗る時、
目頭や小鼻などの細かい部分に
指先が届きません。
アイシャドーにしても、指で修正する時、
アイホールに指先が収まりにくいようです。
細い指先の方が小回りがきいて有利です。
甲長短指であろうが甲短長指であろうが、
何でも結構。
むしろ重要なのは、指の腹です。
指でクリームやファンデーションを塗る時、
ふんわりと弾力のある指先が必要です。
ただ、
柔らかくてタッチが気持ちいい理由だけではありません。
ファンデーションの艶が違うのです。
指紋が深く、乾燥してた、
いわゆるゴワついた指だと、
肉眼では捉えにくいのですが、
ファンデーションに細かい筋目が入り、
艶が出にくくなります。
また
乾燥した指先にファンデーションの油分が吸い込んでしまい、
伸びにくくなります。
つまり、キャンパスに同じ絵の具を塗っても、
目の荒いブラシで塗った場合と、
油分の含んだ柔らかいスポンジとでは、
絵の具の艶や光沢感は
明らかに違ってきます。
そんな感じです。
ワタクシのように、
短く小さく不恰好な指で、
比較的油性肌の指先でも
向いている職業はあるもんです。
ヨカッタ、ヨカッタと、
さらに指の短い母親に感謝しております。
投稿者 tadashi : 10:17 | コメント (0) | トラックバック
2010年12月28日
ガラマンとムジマン

以前のエッセイでふれた事もありましたが、
ワタクシの着る服は、
すべてが 紺と白。
冠婚葬祭以外は、
すべてが紺でシャツは白
とワタクシなりの不文律がございます。
それは、今もって変化なし。
で、一つ付け加えるなら、
ほとんどが無地です。
たまにペンシルストライプや細かいチェック、
あるいは、ヘリンボーンの織地がありますが、
それらもちょっと離れて見ると
無地としか見えないものばかりです。
足の先から頭のてっぺんまですべて無地。
典型的ムジマンでございます。
一時期、15年程前でしょうか、
確かに柄に凝った頃がありました。
今からは考えられないのですが、
派手めなタータンチェックや
エルメス柄のベストを着ていた時期もありました。
が、
何かしらしっくりとこなく、
心まで落ち着かなかった記憶があります。
しっくりこない理由は一つ。
柄負けしていたのです。
ご覧の如く、ワタクシの顔は
温泉卵系のヌメッとした曲線で構成されています。
眉薄くして、目鼻立ちも控えめ。
キリッとした線が一本もなく、
軟体動物的形相でございます。
こんな顔に生まれてしまったのですから、
仕方ありません。
大きな柄のチェックや縞柄、
エルメス柄の強烈な線に
押しつぶされそうになってしまうのです。
好きだから似合うとは限りません!
それをはっきり認識しだしてからは、
柄を潔く諦めてムジマンを貫き通しております。
さて一方、
ワタクシとは真逆の
ガラマンもたくさんいらっしゃいます。
と言うか、
むしろガラマンの方が、
世の多数を占めるかもしれません。
ジャケット、セーターはもちろん、
スニーカーやジーンズにバッグに至るまで
すべてが柄、柄、柄。
ワタクシなんぞは、
自分の着る服の柄が視界に入ってくると、
まことに目障りで不安にすらなってきますが、
ガラマンは逆に柄がなくては
さみしく不安になってくるのでしょう。
確かに彼らの顔形も、
眉や輪郭等の線がはっきりして、
濃いお顔が多いです。
肌も色白なひ弱な角質層ではなく、
しっかりと安定した印象。
服に負けず劣らずの柄顔でございます。
顔だけではありません。
性格的にもガラマンは挑戦的で活動的。
声も大きく、笑い方も大胆であらせられる。
大阪のオバチャンなんぞは、その最たる例で、
全身ヒョウにシマウマ、キリンに虎柄総動員で
動物園で雄叫びをあげているかの如くの
大声と行動力と勢いでございます。
その分正直者が多く、
ウソもないからガラマンは憎めません。
性格と柄好みは一致するのです。
と言うことは、
ムジマンは柔和で内省的で声も小さめで、
口数も少ないめとなります。
確かに一見そうです。
が、
そうは単純にいかないから
ムジマンはややこしい。
エネルギーを表面に出さないだけで、内に温存し、
いざというときには爆発しちゃうから一筋縄でいかないのです。
一見すると淡白そうで穏和な印象を与えるムジマンも、
結構内に秘めたる熱いものがあるのです。
無地に見えるのは表面だけ。
一皮剥けば裏地は派手な柄だったりするのでご注意なさいませ。
ムジマンには表も裏もございます。
そして表と裏を器用に使いわけます。
以上
ワタクシなりの
衣服の嗜好による性格判断でございました。
当たっているかって?
はい、少なくとも
ワタクシに関しては当たっております。
投稿者 tadashi : 13:45 | コメント (0) | トラックバック
2010年11月29日
光と心

もう随分となります、15年くらい前でしょうか、
モロッコのカサブランカに
3日間ほど滞在したことがございました。
目的は観光です。
ウィーンで数週間のオペラ三昧の後、
そのまま帰国するのも何だかもったいない気もしたので、
ちょっと気分転換のつもりで、寄り道したのが、
運のツキ。
この3日間は、ワタクシにとっては前代未聞の衝撃的な日々で、
今から振り返っても、幻のような…
夢かうつつかの滞在でございました。
乾燥した大地の北アフリカ、
しかもイスラム文化…
もうカルチャーショックどころではなく、
人生ショック!
何もかもが違っていたのです。
やたら羊ばかりの食べ物、
街中に漂う獣の匂い、
ホテルの巨大なベッド、
部屋のど真ん中にあるバスタブ、
すれ違う人逹の鋭い目力、
夜明け前からこだまするコーランの響き、
ひと度迷えば二度と出てこれないようなスークの迷路路地…
挙げれば枚挙にいとまがありません。
が、
その中でも決定的にワタクシに衝動を与えたのは、
光!
光のショックは二度と忘れません。
空はどこまでも青く、というか濃紺。
まるで宇宙の暗闇を見ているようなダークブルーです。
太陽とカサブランカの間には
遮るものが塵一つない乾燥した大気です。
日本の秋晴れがいくら透明と言えど、
北アフリカの透明度に比べりゃまだまだ淀んでいます。
そんな光を通して見る世界は、
それまでのワタクシが見てきた
色と形の常識を
見事に覆してしまいました。
例えば、
スークのテントの木漏れ日から見える
香辛料の数々の美しさ!
同じ香辛料でも日本で見る色とは全く違い、
まるでキラキラと輝く宝石のようでした。
自分が日本から着てきたブラウンのジャケットも、
茶色の中に潜む黄色の部分が浮き出てきて、
原色のように見えていました。
ワタクシ自身の肌色も、
そんな空気の中では赤みが浮き立ち、
日本ではオークル系の肌も、
彼の地ではピンク系となっていました。
中間色の微妙なニュアンスをぶっ飛ばして、
すべてが原色のように輝くのです。
色だけではありません、
物の形も違って見えるのです。
猛烈な光量ですから、
降り注ぐ光にあたる物体の光と影のコントラストも強烈です。
光のあたるハイライト部分はどこまでも明るく、
影の部分はどこまでもダークです。
輪郭線がくっきりと鮮明で、
物の形が日本のそれよりも
はるか明確に見えるのです。
日本の湿度の高くどんよりした空気の下では、
輪郭線や影に柔らかいグラデーションがおこり、
曖昧な線となります。
モロッコでは色も形も、パキパキで、
中間というものがありません。
これらの世界は、自分のそれまでの見ていた色相や
輪郭の世界とはあまりに異なっていたのです。
さて、
これらの光の下の生活では、
当然ながら人間の思考もことなるのではないか…
ということも考えられます。
色や形と同様に、
心にもグラデーションの幅が
少ないのではないかと。
喜びから悲しみまでの、
微妙な感情の幅やニュアンスが乏しくなり、
強烈な喜び強烈な悲しみの
二分化してしまうのではないかと思われるのです。
つまり、
その風土に降り注ぐ光と心は
シンクロしているかもしれません。
芸術や文学にしてもそうで、
絵画や音楽は赤道に近づくほど、表現は明確です。
そして、
赤道に近づくほど、
優れた文学者の輩出は少なくなっています。
確かに、そういった南国の地や常夏の島に行くと、
心がアッケラカンとして楽になれます。
逆に北に行けば、長い斜光から生まれる柔らかな影により、
感情の影のニュアンスも長くなり、
音楽、絵画、文学にしても、より内省的になります。
ことわっておきますが、
芸術性の優劣を言っているのではありません。
光による思考性や芸術性の相違です。
カサブランカ滞在中に見た、
それまでに経験したことのない、
光と影、
そして色。
多くのことを発見した刺激的な3日間でした。
あまりの強烈なショックだったのか、
3日目に原因不明の高熱に
うなされてしまったほどです。
食あたりというのがありますが、
この時は
街にあたってしまったのです。
そうそう、
観光って光を観ると書きますよね。
なるほど、なるほど。
景色だけを見るだけではなく、
その土地の光を感じるのも観光です。
モロッコは是非とももう一度訪れてみたい街です。
その時はもっと冷静な気持ちでの「観光」でしょう。
投稿者 tadashi : 10:07 | コメント (0) | トラックバック
2010年10月22日
行きつけ店の選択

以前のエッセイでも書きましたが、
保守本流のワタクシとしては、
一度確定したお店は、
ちょっとやそっとで変更をすることはございません。
ファッションは当然ながら、
デパート、コンビニ、お医者様にいたるまで、
一度決めるとロングスパンで通いつめます。
なかでも飲食はかなり頑固で、気に入ってしまうと、
週に何回も同じ店で同じ物を食べても、一向に飽きません。
蕎麦なら「あたり屋」か「まき埜 」、
焼き鳥なら「圓」、
焼き肉は「哲」、
寿司は「鮨ろく」、
フランス料理は「ベカス」、
バーは「E-BAR」
ホテル系では「ウェスティン大阪」、「ホテル西洋銀座」
と一旦気に入ってしまうと、
浮気もせず不動のお店となってしまいます。
大好物の蕎麦なんぞは
「あたり屋」さんに週4~5回は通い、
日によっては昼夜に2回伺うこともあり、
蕎麦を食べることが最近の日課となっております。
これらのお店の選択基準ですが、
お味が美味しい、なんていうのは、
ごくごく当たり前で、基本のキ。
その基本は、たとえ毎日食べても飽きない深みのある、
丁寧に作られたお味が前提でございます。
そして、
お店が清潔であるのも基本のキ。
たとえ清潔であっても、店の入り口付近に
ビールケースが置いているような店は論外。
傘立てに、客の忘れ物の傘を
いつまでも置いている店も論外。
店の看板も大事で、
シンプルで品格ある文字であること。
よく、「こだわりの味」とか「匠の味」とかを
看板の副題に自らあげている店がありますが、
これらにろくな店はありません。。
「こだわり」と「匠」は
ワタクシの大嫌いな言葉でございます。
そして、やはり一番重要なのは、
料理人のご本人。
まず、男性が望ましく思います。
断っておきますが、女性蔑視発言ではありません。
もちろん女性も素晴らしい料理を作れます。
ただ、残念ながらワタクシが納得できる
女性の料理に巡りあったことがないのです。
もともと、
女性は料理を作るのに向いている思考能力を持っています。
しかし、
それは日常の家庭料理においてです。
対価を支払って、少し非日常的料理を味わおうとしても、
どこか家庭臭さ、所帯染みたところが残り、
いい意味でも悪い意味でも
台所感覚が強い料理となってしまうのです。
つまり厨房料理ではなく、
台所料理です。
料理が日常化されたものには対価は払えません。
その男性料理人の場合ですが、
おおらかで、忍耐強く、
行儀の良い人格を求めます。
おおらかで、ゆったりとした行儀の良い料理、
そして料理に向き合う真摯な姿勢は、
こちらの心まで豊かにしてくれます。
同様に小心な料理は
客の心を貧しくしてしまいます。
あと、
サービス面で重要な事。
至れり尽くせりのサービスは
ワタクシには必要ありません。
こういうサービスはうっとうしいもんです。
必要なのは、
ほんのちょっとばかりの特別扱いを
してもらいたいのでございます
…はい、
ほんのちょっとだけでいいのです。
他のお客と同等ではない部分を、
少しだけ見せてくれれば、
ワタクシの安っぽい自尊心は、
それで満足するのでございます。
うーん、これが意外と難しい。
このあたりのさじ加減は、
かなりセンスを問われる部分でもあります。
しかも、お客全員に同等に…。
同等に同等扱いしない至難の技!
先にあげた店主逹は、
この超絶サービスの奥義が
さりげにできちゃうのです。
客の自尊心を満足させること、
これがサービスの基本のキかもしれません。
そして、彼らのもう一つの素晴らしい共通点。
皆さん、
実にいい顔をしてらっしゃる。
おおらかで、ゆったりとしたお顔…
これまた料理と同じです。
様々な難関や、修行、山あり谷ありの人生でしょうが、
それを踏まえてもなおかつ、
おおらかでゆったりしたお顔を保ってらっしゃる。
これが品格というもの。
料理とまったく同じ。
いいお店、いい料理は必ずやその店主もいいお顔です。
たとえ美味しいと感じても、
店主が卑しき顔なら、その店は似非です。
化けの皮はすぐに剥がれてしまいます。
もし、雑誌などでお店を選ぶ時、
そこに載っている店主のお顔を
よーく、よーく観察なさいませ。
イケメンだけの基準では選んでは、
必ずや後悔いたします。
心が豊かになるお顔。
これを見抜けるよう、
見識眼を持たなければなりません。
そして、
幸運にも行きつけの店ができたなら、
こちらもよい客としての修行が必要です。
これを絶対お忘れなく!
なぜなら
一流の店は、
一流の客によって成り立っているのですから。
投稿者 tadashi : 14:16 | コメント (0) | トラックバック
2010年09月24日
元気オンナか慎ましやかオンナか

我々プロが、モデルにファンデーションを塗る時、
3つの事を考えます。
まずは色目。
首の色に顔色を合わせるのか、
逆に顔色に首の色を合わせるのか。
また、
ベージュ系にするのか、ピンク色系にするのか、
または全く赤みを出さないのか。
そして、
カバー力の度合いも考えます。
カバーをしっかりして、シミやくすみはもちろん、
毛穴までも埋め込む完璧肌を作るのか。
あるいは、地肌の質感を生かしてカバーをほとんどしない、
体温を感じる肌を作るのか。
まずはこの2点を考えるのですが、
もう一つ大事な点があります。
それは
ラスター(luster)の度合いです。
ラスターとは光沢。
艶をだすラスター肌か、
あるいは艶を消したマット肌にするか。
この選択はとても大きな問題。
同じ色とカバー力を持ったファンデーションを塗っても、
艶があるか無いかで
その顔の印象は随分と変わります。
それは単に見た目だけの違いだけではなく、
そのモデルの人格の印象まで変って見えるからです。
顔に艶がおこるには、
これまた3つの要因があります。
張りの艶
水分の艶
油分の艶
張りの艶は、皮膚がピーンと張り、
上昇線を描くお若い肌。
しぼんだ風船より、
ふくらんだ風船の方が艶が出るのと同じ理屈。
これは加齢と引力という切実な問題があり、
物理的に大改造しない限りは、
避けることは不可能でございます。
あとの二つ、油分と水分の艶は、
皮脂や保湿度、汗等により起こります。
肌も体も活性している力のある肌だからこそ艶が出ます。
よく食べ、よく動き、よく喋る
新陳代謝の良い肌の艶。
ラスターな肌は、こういった
活気があり、躍動的な女性像を表現できます。
一方マットな肌は、
それとは逆に、
静的で落ち着いたしっとりとした印象の女性像を表現できます。
肌艶の有無だけで、
このように全く異なる人格に見えるのです。
さて、
現代の化粧品広告を見ていると大変興味深いです。
ラスター肌を勧める広告と
マット肌を勧める広告。
この2つの全く逆の広告が
競うようにメディアに出てます。
ラスター肌は、
光沢によるレフ効果によってシワやシミを飛ばして、
なめらかな肌を表現できるという謳い文句。
マット肌は、
皮脂の出ない人形のようなしっとり肌を
表現できるという謳い文句。
と
完全に正反対の広告で
世の女性に問いかけています。
さぁて、貴女ならどちらを選びます?
これは、
躍動的で生き生きした元気オンナに見られたいのか、
あるいは
奥ゆかしいく慎ましやかなオンナに見られたいのか
の肌の選択でもあるのです。
さぁて、どっち?
どちらの方がオンナにとって得か。
どちらの方がオトコにもてるか。
あぁ~難しい
究極の選択でございます。
迷えば、
相手によってファンデーションをコロコロ変えるのも
一つのテでございますが…。
あのテ、このテで目標達成なさいませ。
オンナ心と顔の艶でございます。
投稿者 tadashi : 10:07 | コメント (0) | トラックバック
2010年08月31日
眉格

女性はなぜメイクをするのか…
若くなりたい、きれいになりたい、男にモテたい
と色々理由があるでしょうが、
我々男から見て一番羨ましいのは、
なりたい女の顔に作れるということ。
例えば、
地味な顔に生まれた派手好き女性なら、
付けまつ毛や濃いアイシャドー、派手色リップ等、
コスメ総動員で取り敢えずは目立つことが可能です。
カワイイ女になりたければ、
タレ目マスカラ、ふんわりピンクチーク、プリプリリップ等で、
いかついお顔もどうにかカワイく見えます。
要するに、
生まれついた顔が、自分の生き方と反しても、
ある程度はメイク改造で異なる人格に近づくことが可能なわけです。
その中でも、
特に手っ取り早く、簡単に
改造ができてしまうのが
眉。
多く太ければ、抜くなり剃るなりできます。
少なければ、描き込めばよろしい。
形を変えたければ、
弓型、山型、ぼかし型…下げたり上げたり、
と
何でもござれ、
ご随意にどうぞ。
改装、改築、増築、補修、取り壊し、
と
なんとでもなるのが
眉でございます。
ただし、
その強い意志と技術があればの話。
つまり、なんとでもなるだけに、
その人自身の格が
丸出しになってしまうのが眉メイク
なのでございます。
長年、この商売をやっていると
そのメイクされた眉を見ただけで、
その人となりまでが見えてきます。
あるいは、こんな女になりたい、
というような将来像も見えてきます。
今まで数々の素晴らしい眉を見てきましたが、
その頂点に輝くのは、
やはり
美空ひばり様。
形といい、グラデーションといい、
天下一品の眉格です。
眉がしらから眉山への柔らかくも明晰な線。
絶妙の長さをもつ眉尻。
その鋭利な眉尻の線は
はるか永遠に続きそうです。
彼女の歌手としての格の高さが見事に表現された眉です。
人格イコール眉格の典型的な例です。
あと、外国では、
マリア・カラスやエリザベス・テーラーの
完璧な強い山型眉、
ソフィア・ローレンの
細密画のような眉が
ダントツの格をもっています。
彼女達を見ていると天賦の美貌と才能、
そして世界に君臨しようとする気構えと意志の強さが、
その眉一本一本にこめられているようです。
まさに芸術的眉でございます。
そんな事を考えてみている今日この頃、
テレビを見ていると
興味深い眉を発見!
蓮舫さんの眉でございます。
はい、あの蓮舫さん。
眉頭から眉山にかけては、
まあそれなりに自然。
彼女の立体的でボーイシュな骨格に
よく似合った直線眉です。
おもしろいのは、
その眉山から落ちる眉尻。
しっかりと眉尻を書き込んでいます。
ただ、しっかりと書き込むのは、
女性国会議員や女性経営者などの
男社会で生き延びていく女性たちによく見られる傾向なので、
特に珍しいことではありません。
眉尻の薄くなった部分を強引にギッギッと埋め込み、
負けてなるものかっー、
というような強い意志と気概が見えてきます。
もちろん彼女の場合も同様なのですが、
他と違うのが、
眉ペンシルで強く書き込まれたその眉尻が、
プチンと突然切れているのです。
まるで句点のように。
はいこれにて終了!
とでもいうような、
なんとも情緒も愛想も色気もない眉尻プチン。
眉。
…てなカンジ。
これって、
彼女の持つ人格と同じだと思いません?
彼女が人気があるのは、
あの鋭利明晰な発言の数々。
その愛想もクソも情緒も色気もない言葉尻は、
眉尻と完全シンクロ!
やっぱりねぇ~
眉って出てしまうんですよねぇ…
人格が。
彼女が優しく人と接しはじめたら、
あるいは心にもっと余裕ができたなら、
きっと眉尻も自然に変わってくるはず。
まぁ、
優しい蓮舫さんなんて、
テレビ的にはおもしろくないでしょうが。
とにかく上等なオンナになりたけりゃ、
上等な眉を描けばいいわけです。
でも、これってなかなか難しい。
なぜなら、
上等な眉は上等なオンナにしか描けないから。
付け焼き刃で描かれた眉は、
すぐに化けの皮が剥がれます。
とはいえ、
化粧ってそもそも化けの皮ですが…。
投稿者 tadashi : 16:28 | コメント (0) | トラックバック
2010年07月28日
万博の記憶

只今、上海万博の真っ最中でございます。
オリンピックに続いて、中国の威信をかけての開催。
ニュースを見ても、なんだかんだと問題点もありそうですが、
これも時代の近代化の過程で仕方がないですが、
むしろ何か大事件でも起こればいいのに…
と期待をもって傍観しているのは、我々のほうでございます。
この期待感は一年前の北京オリンピックの折りにも大いにあったのですが、
見事に期待を裏切られ平穏無事に終わったのは、
さすが中華民族のしたたかなところ。
今回の万博も何事もなく終わってしまうことでしょう。
ところで、
万博といえば、
我々昭和中期生まれの人間にとっては大阪万博のことをさします。
忘れもしません、
それは1970年!
その年、ワタクシは高校生。
1964年の東京オリンピックが小学生でしたから、
それからの6年間は最も多感で、好奇心旺盛な時期でもあり、
この万博の開催をどんなに待ち望んでいたことか。
日本経済の高度成長期は、
ワタクシの心と身体にとっても高度成長期であったのです。
オリンピックのスローガンであった
「より速く、より高く、より長く」は
人間の無限の力を象徴してました。
その表現はそのまま引き継がれ、
万博スローガンは
「人類の進歩と調和」!
日本国民はどこまでも進歩成長し、
未来永劫まで幸福に満ち溢れ、
神から祝福されていると信じているようでございました。
そう、
ちょうど今の中国のよう。
ともかく、時代はイケイケドンドン。
日本国民の総てが、
「進歩」の名のもとに結集し、ばく進していたのです。
そんな、真っ只中に開催された大阪万博は、
戦後の荒廃から完全復興したご褒美の大祝賀会のようなものでした。
はい、
当然ワタクシも行って参りました。
ところが、
若い人達にどうでしたか?とよく聞かれるのですが、
…
まったく覚えていません!
完全に記憶が消去されているのです。
高校2年の夏休みだったことは確か。
40年前なので、記憶が風化しているのかというと、
そうでもなさそう。
なぜなら、
その時の着ていたストライプのシャツとコットンパンツ、
万博に到着した地下鉄の駅だけは克明に記憶に残っているからです。
記憶はそれのみ。
その他の記憶はまったくナシ!
アメリカ館の月の石も記憶にナシ。
太陽の塔も記憶にナシ。
各パビリオンの近未来的デザイン空間も記憶にナシ。
芋の子を洗うような人混みも記憶にナシ。
すべて見事に消去されてしまっているのです。
人間の記憶は幾度と反芻することにより、
継続され思い出として残ります。
ならば反芻がなかった事になります。
つまりは、
反芻するほどまったく興味がもてなく、
家に帰ってからも二度と記憶を辿らなかったのでしょう。
月の石もパビリオンも人混みも、
ワタクシにとってはそれほどつまらなく、
どうでもよかったのに違いありません。
むしろ、
その日のためにおろしたシャツの鮮明なストライプブルーや、
田畑の中にぽつんと建っていた場違いな駅の方が、
よほど記憶に残ったのですからおかしなもんです。
おそらく今、
上海万博に行ったところで同じ結果になるのは間違いなし。
各国の国力をアピールする無機質な万博は、
今も昔もすぐに記憶を消去してしまうことでしょう。
記憶は興味があることのみがふるいにかけられ、
思い出として残ることを改めて知った次第でございます。
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2010年06月29日
オトコ日照りの業界

我らがヘアメイク業界で、
最近ちょっとばかり話題になっていることがあります。
それは、
若い男子がいない…事。
ワタクシがこの業界入りした当時、つまり1980年代は、
先輩同輩を含め半数がオトコでした。
名だたるフリーランスの方はほとんどがオトコで、
オトコ社会と言ってもいいぐらいでした。
それが今世紀になったくらいから、
新人男子が徐々に減りはじめ、
そのまま現在に至っている状況です。
現在、関西において30代のフリーランスの男子は
ほとんど名前が出ません。
ワタクシより後輩の男子は10数名のみで、
女子支配のヘアメイク業界となっております。
ただ、美容業界となると話は全く違い、
美容室に勤めたり、経営している男子は結構多く、
カリスマなんてもてはやされ、活躍しているようです。
美容師人口全体の男子の割合はさほど変わらないのに、
この業界への人気は今一つ。
面接をしても応募に来るのは
99%が女子のみの現状です。
これは不思議な現象です。
色んな原因があるでしょうが、
一つには経済の悪さもあるでしょう。
男子たるもの、一寸先は闇であるギョーカイよりも、
より確実性のある美容室勤務を選ぶのも仕方がないかもしれません。
広告関係やファッション関係の仕事は経済に敏感に反応しますので、
かなりの不安定感は確かにあります。
クライアント側にしても、鬼才あるアーティストより、
きちんと仕事のできる安心できる中堅を選ぶ傾向にあるので、
新人がなかなか参入しにくく、一丁前のギャラを得るには
以前よりも時間がかかる傾向もあります。
男子、一生の仕事、
やりたい事を勇気を持ってやりなさいッ!
と言いたいとこなんですが、
先の理由以外に、
そもそも業界ヘアメイクの仕事に
魅力を感じないのではないかと思います。
男子にとって、どうも不向きな壁があるのです。
その一つがメイク。
1980年代や90年代には
メイク達者な男子メイクアップアーティストが
洋の東西問わず数多くいました。
ところが現在急に減ってしまったのは、
メイクの種類、性格がずいぶん変化したからだろうと考えます。
80年代や90年代といえば、
バブル絶頂期とその後の破綻。
とは言うものの経済はまだまだ良く、
強いオンナのイメージのファッションで、
ヘアメイクも構築的でゴージャス。
スーパーモデルがもてはやされ、ヴォーグ誌が世界を席巻し、
猫も杓子も高級ブランドにしがみついていた頃です。
流行がデザイナーやアーティストの提案により動かされ、
上から下に流れていた最後の時期です。
ところが、
今世紀になると、
例のカワイイファッションが主流になって来ました。
そのカワイイも客観的に見て、何気にカワイイではなく、
かなり主観的。
見て見て、ほら私カワイイでしょっ、私!
というカワイさ。
君、カワイイね~、というカワイさではないのです。
カワイさの種類が違うのです。
あくまで自分が主役。
自分が見て自分で納得できるカワイさでないとなりません。
このあたりが男子ヘアメイクがついていけないのでございます。
オンナ自身がこうありたいと切に願うメイクですから、
前世紀のメイクとは根本的に違います。
一般男子なんぞの理解が及ぶ範囲ではございません。
乙女系男子アーティストでもこのあたりが非常に難しい。
同じようにメイクしても何か違和感があるのです。
睫毛1本や、毛穴埋め立てに命を張ってる
ギャル心を理解しないことにはメイクはできないのです。
モードの流れやファッション業界、
化粧品メーカーからの提案をことごとく拒否し、
オンナの本能のみで施したイマドキギャルメイク。
オンナの本能メイクというミクロの世界の秘密の花園には、
オトコの感覚を拒むものがあるのです。
オトコの入る余地がまったくないのは当然。
若い男子アーティストが育たぬ根本的原因は
このあたりにあるのではないかと思っております。
当分、ファッションの流れが大きく変わらないことには
オトコ日照りは続きます。
オトコにメイクを施してもらいカワイくなりたい女子達…
はっきり言って
諦めましょう!
ご自分でどうぞ。
その方がよほどカワイくお上手に仕上がります。
投稿者 tadashi : 10:12 | コメント (0) | トラックバック
2010年05月27日
自立か依存か

10年をひと昔と言いますが、
そのひと昔前によくオンナ達が叫んでた言葉がありました。
「オンナは自立しなくっちゃ!」
叫んでいるのは、
社民党っぽいオバサンや会社役員っぽいオバサンなどの、
オトコ社会の中で一応成功した方々。
その叫びが何だか可笑しく虚しく響いたのは、
何からの自立かはよく分からなかったからです。
自立と言っても、
彼女達は政治や会社の組織に支えられていますし、
個人的には秘書やスタッフ、
そして夫や家族に見守られつつ仕事ができているのですから、
少なからず誰かにはたえず依存しているわけです。
ならば、
何からの自立かますます意味不明です。
おそらく、専業主婦達へのメッセージで
経済的自立を促しているのでしょう。
そうとしか考えられません。
ちょうどその頃、訪問販売が全盛期で、
ごくフツウの主婦が一攫千金でビルを建てたなんて話もよく聞いたもんです。
経済的自立という言葉に煽られ
仕事専業になった主婦も多かった頃かと思います。
自立と叫んでみても、そもそも、
生物は他の生物への何らかの依存なしには生きていけません。
誰にも支えられていない人がいらしたら、
お目にかかりたいもんでございます…
なぁんて考えてたのが、10年ひと昔。
近頃、女性の自立という言葉が、
とんと聞こえなくなってきたと思いません?
自立しなくっちゃ!
と叫んでるオバサマ方もめっきり少なくなってきたように思います。
ちょうどこの数年くらいからでしょうか。
と同時に現れたのが
カワイイ現象。
可愛く装って、オトコはもちろん、同性からもカワイイッと呼ばれ、
この世の愛情を一身に集めようというわけです。
つまりこれは
自立と正反対の依存でございます。
あの肩肘はったオバサマ方に変わって、
今時ギャル達が台頭し出したわけです。
つまりは、
あの自立!と叫んでた女性運動の講演会は、
カワイイ!を連呼する
ガールズコレクションへと変貌したのです。
ただこのカワイイ文化は、
若い女子だけに限ったことではありません。
大人カワイイという流行語があるように、
全世代の女性達に浸透している傾向です。
女性の時代は常にいずれかの傾向にあります。
戦後から続いた長い自立文化はここに来て
ついに終止符が打たれ、
依存文化になってきたと言えるでしょう。
全世代自立か依存か、
常に女性は選択に迷い悩んでいるのです。
でもねぇ、
あの自立の叫びが虚しく聞こえたように、
キャットウォークを歩くモデルに向かって
カワイイ〜!を連呼する女子の姿も
可笑しく虚しく見えてなりません。
いずれにせよ、
男達は蚊帳の外…
どちらに転んでもオンナの下半身しか興味がないようで…。
ならば、
今のカワイイ依存文化はオトコ達にとっては非常に都合よく、
居心地の良い時代となります。
オトコは依存されると
突然に発奮する生き物でございますから。
投稿者 tadashi : 11:06 | コメント (0) | トラックバック
2010年04月26日
乙女のお願い力

乙女と聞いてまず最初に思い浮かぶのが、
数々の洗練されたイラストを描いた、
中原淳一 (1913〜1983) の
夢見心地の乙女像です。
他にも竹久夢路や内藤ルネが有名ですが、
万人がこれぞ乙女と認める絵…それらの作家達が、
みんな揃いに揃って男であるのも不思議でございます。
現実にあり得ないような、洗練され理想化された乙女像を描かせたら、
彼らの右に出る者はいません。
女性の作家が描けば、
もう少し生々しい部分が出てくるのでしょう。
ところで、
彼らの描く乙女顔には多くの共通点があります。
まず輪郭線ですが、
なだらかな顎をもった、いわゆる卵形フェース。
強い線をもったエラ張り女ではありません。
目は丸く大きくパッチリ見開き、ドッサリまつ毛で縁取られています。
この目の大きさは尋常ではなく、
顔全体の三分の一を占めるほど。
黒い瞳は巨大化し、白目部分はほんのわずか。
目頭のも涙腺もしっとり潤んでいます。
眉は、なだらかな曲線を描き、極めて短い眉尻…
というより
眉尻がほぼ存在しません。
頬紅は頬骨の上の高い位置に存在し、
顔の内側まで柔らかく存在してます。
リップは輪郭線を強調せず小さな口元。
そして艶々とコッテリ光っています。
幼い少女心と、大人オンナ心の狭間にある、
乙女心の揺れ動く心の襞。
あぁ、乙女心の切なさよ…
を具現化するとこんな顔になるのでしょうか。
これって、何かに似てません?
そう、
この世の春を独り占めしているかのような、
イマドキ女子メイクでございます。
バサバサと長い付け睫毛とアイラインで
デカ目を丸く大きく強調し、
黒いエッジのコンタクトレンズで装着された黒目は、
お願い、可愛がって…
と懇願するかのよう。
人気のチワワ犬はこんな目です。
強い意志表示をわざと隠すような短く幼い眉尻。
体温と高揚感、羞じらいを表現した高い位置のピンクチーク。
そして幼く小さな口でありながら、
官能を誘発するプルプルグロスとアヒル口スマイル。
あの中原淳一の絵を生身の女で表現すると、
こういったイマドキのメイクとなります。
幼さと官能性
挑発と依存性
この2つの矛盾した性質を見事に共存させたメイクです。
特に依存性。
これは乙女の専売特許でございます。
依存心が無ければ、乙女は生きていけません。
オトコや社会から守ってもらわなければ、乙女の存在意味がなくなります。
同情や哀れみもなんでもござれ。
ともかくお願い!
かまってチョーダイ!
が 現代の乙女の祈りでございます。
あのアヒル口なんて、その典型。
すねているのか、甘えているのか、挑発しているのか
訳わからない依存性の強い笑い方であります。
そのアヒル口にオトコはまんまとひっかかり、救いの手を伸ばします。
これを力と言わず何と申しましょう!
中原淳一の夢見心地の乙女像はあくまで仮想のお話。
現代乙女は地にしっかり足をつけて、
付け睫毛やコンタクトレンズ、コッテリグロス総動員で、
お願い力UPで、オトコをゲットなさいます。
乙女の本能は本当に凄いのでございます。
投稿者 tadashi : 16:29 | コメント (0) | トラックバック
2010年03月19日
お食事マナー考Part2

一つの食べ物を、どういう方法で口に運び、
食欲を満たすかはとても難しい問題。
なりふり構わず、食欲だけ満たせばよいのは、
人間以外の生物のする事。
知性も教養もある人間は、
きちんとコントロールした食べ方をしなくてはなりません。
とは言え、前回のエッセイでも述べたように、
マナーが完璧な人間でも、何となく憎たらしく見える人もいるし、
逆にガツガツ食べてても、可愛く許してしまう場合もあります。
最終的には
本人の個性、人格が優先される部分が
多分にあるのです。
そこで、映画に見る素敵な食べ方をした、
一人の大女優をご紹介。
グレース・ケリーでございます。
彼女は、映画「泥棒成金」(1955年制作、監督ヒッチコック)の中で、
とてもチャーミングな食べ方を見せています。
そもそも、
食べているところを撮られるのは、女優は嫌がります。
女優に限らず、食べているところをじっと見られるのは、
誰だって嫌です。
特にこの5〜60年代のハリウッドは、
女優達を神秘のベールで覆い、
女のナマの部分をオブラートで隠していた時代です。
ヒッチコック監督は、そのベールを少しめくり
グレース・ケリーで食事シーンを撮ったのです。
物語の前半、ケーリー・グラントとの初デートでの
ドライブピクニックのシーン。
戸外の車中のランチですから、
フォーク、ナイフでお上品に食べる料理なんかではなく、
なんとバスケットの中から
フライドチキンを手づかみで!
チキンをほお張りながら、長ゼリフをしゃべりながら、
細かい所作もしながら…
と、ながら尽くしの
非常にやっかい極まりないお食事シーンであります。
これを彼女は見事やってのけました。
このシーン、あまりに洗練された食べッぷり、
しゃべりっぷりなので是非ともご覧頂きとうございます。
実は、決して完璧な行儀の良い食べ方というわけではありません。
むしろ、少々お下品とも言える口の動きも垣間見えるのですが、
それが却ってキュート。
生まれも育ちも教養も超別格ですから、
基本的にベースが違います。
そんな御仁が少々邪道な食べ方をしても、
とてもカワイく見えてしまうから不思議です。
作られたカワイさや、媚びたカワイさではありません。
余裕から生まれカワイさでございます。
本物のカワイさ、大人のカワイさでございます。
日本の幼稚カワイイ文化で育ったお嬢ちゃま達には
絶対に真似できません。
きちんと、知性と教養に裏打ちされた行儀のあるカワイさ、
これを是非とも目指して頂きとうございます。
そう、
彼女はその極上カワイさで、
本物の王妃様になりました。
投稿者 tadashi : 12:45 | コメント (0) | トラックバック
2010年02月24日
お食事マナー考

お食事中のマナーで、一番気になるのが、やっぱり音。
噛む音、すする音、しゃぶる音、
皿の音、フォークの音…。
ともかく、
絶対に音を発せず、無音で食べるのが基本のキ。
次に食べる所作でしょうか。
猫食い、犬食いは論外。
口から食べ物に向かうのではなく、食べ物から口に運ぶのです。
これまた、基本のキ。
あと、あまり論じられない事ですが、
食べる速度も非常に重要です。
よく咬んでゆっくり食べるのは
基本的のキ以前の当然のト。
ガッツく早食は、お下品の極み以前に
消化によろしくないのは周知のごとく。
ただ、ゆっくり過ぎるのも考えもの。
コース料理の場合、当然ながら
一番遅く食べ終える人にあわせて次の料理が運ばれるわけですから、
ある程度周りの人達にスピードを合わせる事も大切です。
ワタクシなんぞは業界で鍛え上げられた早食いなので、
超スロー食いの人がいると、イライラいたします。
ワタクシのように早食い癖のある人は、
ガッツかず優雅に見えるようテキパキ食べる事。
これにはちょっとしたコツがあり、
口へ運ぶ、箸やフォークの上げ下げだけを、
ゆっくり動かせばよいのです。
ゆっくりと口に入れ終えた食べ物は、
ゆったり早く噛んで胃袋へ速やかに移動させましょう。
こうするだけでも、優雅風でテキパキ食べれます。
音と所作と速やかさ。
まぁ、この3原則さえ守ってさえすれば、
人にも迷惑がかからず、美しいマナーです。
ところが、です…
以前からずっと気になってた事がございます。
ほぼ完璧なマナーにもかかわらず、
ほんのちょっとのすする音を出しただけでも、ムカ〜っとくる人がいます。
逆に
クチャクチャ音は出すわ、犬食いはするわの
最悪マナーにもかかわらず、全く腹が立たない人…。
この差はいったい何だろうと考えるのです。
ムカッ〜とくる人、
これは、どこかでウソをついている、
どこかで誤魔化していると察知してしまうからかもしれません。
美しく身なりや体裁整えても、
たったズルッの一音で、
ほ〜らやっぱり、お里が知れたわい
と思ってしまうからです。
一度ムカッとくると、もう止まりません。
箸の上げ下げから、鼻息まで、
果ては顔カタチまでがムカつくのでございます。
まさに坊主憎けりゃ袈裟まで憎くくなってしまいます。
もともと、どこかで信用しきれてない部分があったのが、
ズルッの一音で、その人の人格の低さを確証してしまう怖さがあるのです。
一方、犬食い、猫食い総動員の人でも、
全く気にならないのは、
やはりその人自身のパーソナリティーに負うとこが大きい。
つまりは、カワイげ…
やっぱりカワイげ。
なんとかしてあげたいと思わせる何かがあると、
何でも許してしまうし、行儀の悪さもアバタもエクボとなってしまいます。
完璧なマナーを身に付けてたところで、
カワイげ無ければ憎さも倍増。
完璧なマナーをすればするほどに
腹がたつものでございます。
ああ、やっぱり人間にとっては、
カワイげが一番のマナーと言えるかもしれません。
では、そのカワイげはどうして身に付ければ良いのか…
また、ゆっくり考えてみたいと思っております。
投稿者 tadashi : 15:10 | コメント (0) | トラックバック
2010年01月26日
保守派の独り言

ワタクシ、保守派か革新派かと問われると、
当然ながら保守派でございます。
札付き、バリバリ、コテコテの保守派でございます。
そこで、今回はその保守本流ぶりをご紹介。
まずは服ですが、
ジーンズに白シャツ、紺ジャケットの定番スタイルは、
この10年来何も変わらず。
特に白シャツとジーンズはずっと同じメーカーで基本は同じ型。
ジーンズはリーバイスですが、
未だ嘗て他社のジーンズをはいた事も触れた事もありません。
靴も気に入れば、同じデザイン同じ色を3足まとめ買いして、
取っ替えひっ替えで10年は履き続けます。
外食は、この数年ずっと同じ蕎麦屋さんに通っております。
多い時で週5回、少ない時でも週3回。
つまりほぼ毎日蕎麦を食べている状況です。
頭のてっぺんから蕎麦の実が生えてくるかと心配しておりましたが、
そんな事もなく、
ぜんぜん平気でいたって健康でございます。
その他の食事にしても、中華はココ、お寿司はココ、
おフランスはココ、イタリアンはココと決めております。
衣・食と続いたので次は住。
今の住居は
30年前に引っ越して以来、ずっとそのまま居続けています。
インテリアの基本配置もそのまんま。
壁紙も古くなり、決して流行の内装ではありませんが、
居心地がいいので、何も変えておりません。
趣味においての音楽は保守の王道、クラシックのみ。
クラシック以外は音楽にあらず
…とまでは申しませんが、かなり近いものはあります。
しかも3大B限定。
つまりバッハ、ベートーベン、ブラームス。
これ以外はクラシックにあらず
…とまでは申しませんが、これまた近いものはございます。
気に入った音楽は、毎日々とことん聴き込みます。
とことん聴いても、飽きないのがクラシック音楽のスゴイところ。
ちなみに、頭をクリアにするためには
1日に数度はゲームボーイをしますが、
このゲームボーイ、なんと
1989年製のシロモノで、使い続けて20年!
しかもソフトはテトリスのみ!
手垢はつくは、画面の枠は外れるはと、古色蒼然としておりますが、
いまだ故障もなく元気に動いております。

この骨董ゲームボーイは、ワタクシの生活必需品、
お宝でございます。
そして何よりも皇室ファン。
EXILEよりも皇太子様の方が、
ずっとステキであると思っております。
とまぁ、こんなのはごく一部で、枚挙にいとまがありません。
ワタクシの保守生活はこんなとこでございます。
他人の生活や社会の情勢にさほど興味もなく、
我が道を往くスタイルを貫き、
自分にとってのベストを追及した結果が
このコテコテの保守生活となったのであります。
と、書くと絶対に変化を求めない頑固者
ととらえられるでしょうが、
さにあらん!
密かに変化がおきてくれはしないかと、
常に目をキョロキョロしながら、沸々としているのでございます。
この変化のない人生や生活に飽きつつあるのは正直なところ。
この「自分らしい」生活が永遠に続くなんて、考えただけでもゾッとします。
急激な変化で自分の生活がひっくり返るのはご免です。
しかし、
少なくとも自分を取り巻く周囲に変化が起き、
その余波で自分の生活にも何らかの影響の変化が起きる事を望んでおります。
保守の人間はリスクを極端に恐れます。
早い話が意気地無しの一面があるのです。
そこで、ワタクシのような保守本流の人間は、
変化が欲しい時には自分の手は汚さず他人の手を借りようとします。
つまり、
保守派には革新派の手が必要なのです。
保守派は革新派を傍らに置きたがるのです。
現に、ワタクシの周囲は引っ越し好き、ファッション好き、
浮気好きの生活革新派がワンサカいます。
彼らがワタクシの保守生活を適度に刺激して、
人生を飽きないようにしているのでしょう。
そして、大きな変化がしたい時には、
彼らの手で、ちゃっかり後押しをしてもらい大革命を起こします。
保守派は革新派の行動に眉をひそめますが、
実はちょっと憧れの目で眺めているのです。
逆のことも言えそう…でしょうか?
保守と革新は、実はとても仲良しで
相思相愛…と言えるのでしょう?
一度革新派の人達にも
じっくり話を聞いてみたいもんでございます。
投稿者 tadashi : 10:30 | コメント (1) | トラックバック
2009年12月24日
般若顔の女達

最近、昔のビデオを整理していると、
小津安二郎監督(1903〜1963)の映画がワンサカと出てきました。
欧米型の映画に比べると、カメラは固定され、
ライティングも特殊なものでもなく極めてオーソドックス。
脚本も特に気をてらうものでもなく、とても普通。
にも拘わらず、その映像は何度見ても引き込まれてしまいます。
数々の名作が彼の手によって作られましたが、
その中でもワタクシの好きな作品の一つに「秋日和」(1960)があります。
昭和の実にいい時代、高度成長期の屈託のない時代を描いた、
高級能天気な名作です。
ところで、小津といえば、
二人の偉大な名優を生み出しました。
言わずと知れた、笠智衆(1904〜1993)と原節子(1920〜)。
もちろん、この「秋日和」にも出演してます。
確かに名優には違いないのですが、このお二人、
とてもヘン。
何がヘンかと言うと、
何をやっても笠智衆。
何をやっても原節子。
それでいて、きちんと役柄の枠に収まっているところが凄くて、
ヘン。
強烈な個性を持っていながら、
普通の父親役や母親役をしてもそれなりに見えるのは小津の手腕でしょう。
笠智衆のヘンさと特異さは、周知のごとくですが、
原節子の場合は、特にヘン。
確かに彼女を見てみると、美しい。
清純派の代名詞のようにたとえられてる、20世紀のミューズです。
全盛期に突然引退して、それ以降は謎。
今もご存命で、鎌倉でひっそりと隱遁生活をなさってるようですが、
その生涯はまるでグレタ・ガルホとそっくりで神秘のベールに包まれてます。
清潔で清純、品性。
それが万人の認める世間の評価です。
でもね、
じっーと彼女の顔を見ていると、
尋常ならざるものが見えてくるのです。
クローズアップされた彼女の顔を見つめていると、
清純でも清潔でも品性でもない、それらとは正反対な、
不純で不潔で卑しいものが垣間見えるのです。
普段は美しい笑みも、
突然、般若の面のような顔に変貌します。
その一瞬はぞっとするほど恐ろしい。
そしてぞっとするほど美しい。
立ち居振舞いにも、それは現れています。
先ほど、卑しいと書きましたが、
彼女が着物を着た時の歩く姿の足元が、それを裏付けます。
座っている時は気にならないのですが、
歩き出したとたん、
ふしだらで不潔な足元になるのです。
実に品性なく、むしろ汚ないぐらいの野婢さです。
手の指先にしてもそう。
場違いなマニキュアを平気で施した爪先は実に不潔で、
役者としての責任に欠けます。
彼女の本質、本性がそんな部分に現れてしまっているのかもしれません。
本性がバレた怖さと美しさです。
小津監督はその本性を熟知していたのか、あるいは知らなかったのか…
もし、熟知していたなら想像以上に見識ある監督でしょう。
そういえば、今をときめく小雪様にしてもそうです。
まさに白い雪のように清純な雰囲気を醸し出しているようですが、
同様に恐ろしい表情を見せる瞬間があるのです。
般若女に変貌する一瞬です。
コマーシャルの映像を見ていても、それを感じ取れて実に怖い。
原節子にしても、小雪にしても、彼女達の尋常ならざる美しさは、
顔とは裏腹な女の本性を映し出しているからかもしれません。
確かにこの二人、醸す雰囲気はそっくりです。
般若面とは、鬼女の顔。
妬み、怨み、苦しみ、怒りをたたえた顔。
妬み、怨みは究極の美女の必須条件かもしれません…
おぉコワッ!
投稿者 tadashi : 16:59 | コメント (0) | トラックバック
2009年12月03日
お笑い洗顔

ずいぶんと以前になりますが、
「攻めの洗顔・守りの洗顔」というテーマで、
洗顔の重要性をブログに書いた事がありました。
何事にも功罪がつきもので、
洗顔のやり方一つで肌を活性化さす事も可能ですし、
また間違った仕方で肌を荒らす事にもなります。
正しい方法は一つではなく、
肌の調子や体調の変化によって、攻めたり守ったり、
手を変え品を変えて洗顔しなければなりません。
ところで、斯く言うワタクシ、
随分以前から眉間付近がいつも乾燥して、
眉頭の角質がガサガサしていたのです。
いわゆるTゾーンの上部です。
まあ、慢性的な乾燥荒れで、クリームさえ塗れば治まるし、
誰でもあることと諦めながら洗顔しておりました。
ところが、ある日のこと、
家の洗面所で石鹸で顔を洗い、
十分にすすいだにもかかわらず、顔を見ると
石鹸の泡が眉間に残っているではありませんか。
で、もう一度すすいで鏡を見ると…
やはりまだうっすらと残っている…。
これは摩可不思議と考えると、
ハタと気がついたのでございます。
洗顔の時、必ず眉間にシワを寄せてゆすいでいるのです。
いわゆる怒りの表情、
しかめっ面で洗い、ゆすいでいます。
まあ、当たり前です。
石鹸や水が目に入らぬよう、しっかり目を閉じなければなりません。
しかし、
実はこれが泡残しの原因だと
ハタと気がついたのでございます。
眉間のシワや筋肉に残った泡はそのまま居残り、
当然ながら角質を乾燥させて、ガサガサ眉間となっていたのです。
石鹸による乾燥トラブルです。
そこで、ワタクシは試みたのでございます。
お笑い洗顔。
ニコッと笑って、ご機嫌な表情のゆすぎでございます。
ホホッ、
これが意外と効果あり!
笑うと眉間や小鼻の筋肉がストレッチして、
隅々までスッキリと洗い流せるのです。
洗い残し、ゆすぎ残しもなく、
おかげさまで眉間の乾燥ガサガサも随分と落ち着いてまいりました。
何せ強引な幸せ表情で洗顔しますから、
その日の憂さも、ストレスも洗い流せそうでございます。
笑う門には福が参ります。
お笑い洗顔、是非ともお試しあれ〜 ホホッ!
投稿者 tadashi : 11:42 | コメント (0) | トラックバック
2009年10月29日
肉食か草食か

秋も深まり、季節は冬に向かって着実に移行しております。
夜のしじまからの虫の音を子守唄に眠りに就くのは格別。
リーン、リーン…
なんとも風情がある音色です。
しかし、耳を澄まして聞くうちに、
単に美しいだけの音ではなく、
ある種の官能的で物憂げな響きである事に気付きました。
楽理的には明るい長音階ではなく、悲しげな短音階に近い響きです。
その僅かな官能さを含む哀しさの調べが心地の良い眠りへと導くのでしょう。
そこで調べてみると、
あの音色はオスがメスを惹き付けるため、
羽をこすり合わせて出す摩擦音であるとのこと。
どうりで、官能的なはずです。
春先にギャーギャーとなく猫みたいなもの。
そういえば猫のサカリ声も物憂げな短音階で、
どんな動物も、異性を求める声は、切なく響くものです。
そんな生々しい生態を考えながら虫の音を聞くと、
なんともイヤらしいサウンドで悶々として眠れそうもございません。
ところで、
先日テレビで鈴虫をテーマにしたサイエンス番組を放映してたのですが、
これがなかなか面白い内容でしたので、ちょっとご紹介。
夏の終わりに鈴虫を売って生業としている社長が出演。
その社長、自ら鈴虫を飼育し、
鈴虫を鳴かせたら右に出る者なしの、
鳴かせ名人でもあります。
彼によると、鈴虫は餌の種類によって鳴き声が違うのだそうで、
最も響きが良くなるのはなんと煮干しとのこと。
普段は野菜中心の食生活でも、煮干しを一ヶ月も食べさすと、
まず羽自体が硬く強固になるのだそう。
硬くなった羽は張りが出て、高らかに響きます。
当然音量も増大。
ビフォー・アフターの映像を比べると一目瞭然…ではなく、
一聞瞭然で
野菜のみで育った鈴虫は、か弱く情けない音色です。
当然、メスの鈴虫は高らかな羽音のオスの方に人気集中。
そのオスの周辺だけは、まさにハーレムのような有り様となります。
当然ながら、メスが求めているのは羽音ではありません。
響きわたせる羽を持った、
その強靭なる肉体を求めているのです。
種の存続と繁栄には、
強い肉体を持つオスの遺伝子が必要なのです。
これは全ての生物に通じます。
いくら頭が良い文化系オタクよりも、
少々頭が弱くとも体育会系ワイルドの方がモテるのは
鈴虫も人間も同じ生態でございます。
そして、強靭な肉体を持つには、
やはり肉食で育つ必要があります。
肉は肉によって作られるのです。
サラダをパリパリ食べているオトコより、
焼肉にむしゃぶりついているオトコの方がよほどセクシーに見えます。
番組の後半、肉食で育ったオス鈴虫の羽音と、
野菜だけで育った鈴虫の羽音をスピーカーから流すと、
なんと
メス鈴虫は肉食鈴虫のスピーカーに群がり、
スピーカーを埋めつくしてしまうのです。
嗚呼〜、
なんとメス共の哀れなことよ…。
今にもスピーカーと交尾でもしそうな勢いでございました。
人間界においては、
草食系男子がもて囃されている昨今でございますが、
若い生殖能力の高いうちは肉食系男子に限る
とワタクシは考えております。
肉体もオツムも強靭な男子の方がはるかに優秀な遺伝子を残しそう。
そして、
40才も過ぎてご用済みオヤジなると、
草食に切り替え、細く長く生きられることをお勧めいたします。
そう、
肉食系男子に草食系オヤジ。
オトコはこれに限ります。
投稿者 tadashi : 17:34 | コメント (0) | トラックバック
2009年09月28日
KAWAII〜!

日本には、夫婦(メオト)茶碗とか夫婦箸
というような独特のペアグッズがございます。
オトコは大きく、オンナは小さくです。
これを見て、男女同権の女性運動家は
差別の象徴!
として、眉をひそめます。
思わず、アホッと呟いてしまいそう。
男と女は同権なんてあたりまえ。
法律できちんと定められてます。
それとこれとは話が違うのです。
小さいお茶碗を与えられて、
クソッ悔しい
と感じる女性ってほとんどいないのではないのでしょうか。
キャッ可愛い、と
素直に小さい方のお茶碗を手に取ってしまうのが、
正常な女心であると思います。
考えてみるに、
器を男女によって大小の差をつけてるのは我がニッポンくらいのもので、
西洋において、
メオトフォークやメオトグラスなんぞを見たこともございません。
西洋は機能、用途のみによって大きさを変えます。
ところが、
ニッポンでは男と女の性差でも大きさを変えます。
ワタクシはこれをニッポンの素敵な文化だと思っています。
小さい茶碗や箸を、即座に我が身に置き換え、
しおらしく、いとおしく感じてしまうのは、
ニッポンオンナの特性であると考えております。
小さいお茶碗が可愛いのではなく、
それを使っている我が身が可愛く、いとおしいのです。
視覚と心が同調するのです。
可愛い感情は、守りたい、守ってあげたいという
胸キュンの心の動きです。
いつまでも可愛くありたいと願うニッポンのオンナの感情は、
いつまでも自分自身に母性を感じたいオンナ心でもあるのです。
夫婦茶碗や箸に象徴されるように、
他民族に比べ、我がニッポン人は伝統的に
可愛い感情を発露しやすい民族かもしれません。
ところで、
可愛い という言葉は英語に訳しずらい単語です。
PRETTYともCUTEとも微妙に違います。
可愛いは母性を促す分、もっと幼児性があるかと考えます。
しかも生々しい幼児性です。
可愛いはKAWAIIであって、日本独自の言葉なのです。
そのKAWAII、
日本を脱出して欧米にまで輸出しようとしてます。
KAWAII特使まで作りあげて、MANGAと同じく国をあげての盛り上げようです。
資源が乏しい日本は、せめてKAWAIIを文化水準にまで引き上げ、
世界中を、席巻できればと企てているかのようです。
しかし、そうは問屋は卸しません。
多くの欧米人、特にフランス人は
あのKAWAIIファッションは、子供じみて見えるようで、
「我々は大人の文化よ」とフンと一瞥するだけ。
はい、ワタクシも賛成!
進化、成熟化したものを文化と言えても、
実年齢より幼児性あるものに対して文化と呼ぶのは、文化への冒涜でございます。
KAWAIIは文化ではなく、ただの現象なのです。
とは言うものの、西洋にも物好きマニアはいるもので、
日本発信のKAWAIIファッションを身に纏いたいと願う変わり種の西洋人がいます。
でもねぇ、これって
日本人のボロ勝ち!
あらゆるファッションは西洋人にはとても太刀打ちできなく、
劣等感にさいなまされ続けてた我がニッポン人も、ここにきて大勝利でございます。
立体的で鋭角的なお顔も、手足の長さも、
すべてが不利な条件となるのが、
このKAWAIIファッションでございます。
いつだったか、KAWAIIファッションに身をやつしたアメリカ人をテレビで見ましたが、
まるで自衛隊出身のニューハーフのようで、笑っちゃうほど不似合いでございました。
胴長、短足、平面顔の我々の方が、
はるかに幼児性が強調され、KAWAIく見えるのです。
普通のルーズソックスにしてもそう。
ヨーロッパの一流モデルが
ルーズソックスにセーラー服を着たとこを写真で見たことがありますが、
ルーズソックスから覗く膝が異常に高く、間延びしてとても滑稽でした。
身長、手足が短いほど似合うファッションもあるのです。
つまり、
幼児体型であればあるほど幼児服、つまりKAWAII服は似合うという、
まことに理にかなったファッションなのです。
確かにニッポン人のみが似合う独特のファッションがKAWAII。
ファッションはそれでも結構。着たい人がお召しになればよろしい。
しかし、何事も過剰になると話が違います。
KAWAIIファッションに身を包んだ若者達が、みんな
赤ちゃん口調で喋るのも気になります。
人格まで幼児化して見えるのはいかがかと。
夫婦茶碗のように、ちょっとの差は
オンナに優しさと母性を促し、オトコに力と責任を促します。
夫婦茶碗とKAWAIIファッションとはレベルが違うのでございます。
過剰なKAWAIIは、見る人に母性を感じさせるどころか、孤立化してしまいそう。
世界中にひんしゅくをかわないよう、ほどほどに。
投稿者 tadashi : 15:15 | コメント (0) | トラックバック
2009年08月26日
ネイルアートとニッポン

この世の最も低俗アートである
ネイルアート。
(アート眉もありましたっけ…)
ひと頃のような、笑ってしまうぐらいの盛り盛りラメは、
さすがに影をひそめつつありますが、
それでもまだまだブームは続いています。
自分ではカワイイと思っていても、他人にとってはどうでもよい、
うっとうしい低俗アートでございます。
手先は道具を使う手段の一つである
という基本的な機能を自ら放棄しているのですから、
ネイルアートオンナは本気で生きてないと誤解されても仕方ございません。
一部の層から始まったネイルアートですが、
今や一般主婦から学生まで幅広い世代に定着してます。
ところで、この加速度的に広がったこのアートも、
ある業界ではかなり遅れて浸透しました。
それは、モデル業界。
意外と思われるかとしれませんが、
モデルがネイルアートを施し始めたのは、ほんの数年前くらいからです。
モデル達がネイルアートをしなかった理由は
至極簡単。
ご存知のようにネイルアートはジェルやアクリルで固められているので、
除光液ごときでは取れません。
そりゃ、あれだけラインストーンやラメをてんこ盛りしてるのですから、
強固な作りでないと困ります。
料理の皿やパソコンのキーボードにラメをポロポロ撒き散らすことになるのですから。
しかし、モデルの場合は逆。
取れないと困ります。
なぜなら、
メイクと同様、広告やファッションのコンセプトに合わせ
ネイルの色を塗り分けなければならないのですから。
ただ可愛いとか、カッコイイとか、
似合っているだけの理由でネイルの色を決められないのです。
そう言えば、ひと昔前こんな事がございました。
その日の撮影は、今をときめく日本人一流モデル。
メイク前に爪を見ると、
当時流行の花柄スパンコールのジェルネイルで
固められてました。
それはそれで可愛いのですが、問題は
広告商品と全く合わないこと。
商品は腕時計でステンレスバングルのメンズタイプ。
花柄スパンコールとでは対極的な時計です。
撮影は時計と顔とのアップショットなので、
爪の細部にわたってよく映ってしまいます。
ナチュラルカラーを上から塗って誤魔化そうとしても、
すでにスパンコール大盛りですからボコボコになるだけで、
見苦しい事この上なし。
モデルも恐縮してごめんなさいを連発するばかり。
結局、指先をポーズとライティングでカバーして、
何とかその日は切り抜けました。
こういう事態が起こり得るので、
ネイルアートはなかなかモデル達の中では定着しなかったのです。
ところが、
現在の撮影はデジタルがあたりまえ。
爪の色なんて、クリックひとつで何色にでもポンポン修正できます。
つまり、
どんな色を塗っていても何とかなるわけです。
となると、
モデル達も満を持して一斉にネイルをアート化させたのです。
現在雑誌系モデル達のほとんどは
ネイルアートでピカピカギラギラさせています。
まあ、それはそれで結構なことです。
ところが、
ワタクシ最近ある事に気付いたのです。
西洋人モデルがネイルアートを施したのを、
未だ嘗てお目にかかった事がないのです!
ヨーロッパ、アメリカ、ロシアを問わず、西洋人モデルで、
ただの一度も見た事がありません。
それどころか、
彼女達の爪は子供のように短く切り揃えられ、
なかには深爪のモデル達がいるほどです。
これって、とても不思議な現象です。
最初はさすがに西洋人モデルはプロ意識が違うものだと感心していたのですが、
それなら爪も長くして手入れも怠ってないはずです。
そこで、彼女達に思いきって聞いてみました。
ネイルアートはしないの?
「horrible!」
と即座にお答えなさいます。
ここがニッポン人と根本的に見解が異なるところ。
指の末端がキラキラしていてると
心まで浮かれてキラキラしてしまうのが、
正常な乙女ゴコロ。
しかし、
西洋人達はそんなラメ爪ごときでは心を動かされないのです。
逆に
「恐ろしく不愉快!」
とまでおっしゃる。
これはこれで、正常な客観視ができてる大人ゴコロ。
そう言えば、
携帯電話をラインストーンで埋めている西洋人モデルを見たことはありません。
携帯ストラップをじゃらじゃら付けてる人もおりません。
日本はカワイイ文化と言われていますが、
ネイルアートも日本独特の固有文化かもしれません。
単にカワイイものが好きというより、
カワイイもの、綺麗なものを見たら、
自分までがカワイイ存在になってしまう、
同調しやすい国民性なのかも。
それと、もうひとつ重要なこと。
似合う、似合わないの問題が大きい。
あのネイルアート、
日本人の手のようにモミジサイズならカワイクも見えるのでしょうが、
西洋人のように大きくタランチュラのような手では、
どうもブキミで魔女のように見えます。
その昔、陸上選手のジョイナーがそうでした。
カワイイとは対極的な挑戦的でブキミな匂いを漂わせていました。
西洋人がネイルアートをすると、
全くカワイくなく、何となく収まり悪いのです。
結局のところ、我がニッポン、カワイイ文化の事の発端は、
この幼児手、幼児顔、幼児体型から起こってるのかもしれません。
だって最近テレビで見る、欧米人のコスプレって
本当にブキミですもの…。
このあたりの深〜いお話は、
また次回にでも…。
投稿者 tadashi : 16:19 | コメント (4) | トラックバック
2009年07月22日
オンナはなぜバッグがお好きなのか

幼い頃、母の部屋の押し入れを開けると、
溢れんばかりの箱が戸棚いっぱいにあったのを覚えています。
箱の中身はハンドバッグ。
父の稼ぎの割りには贅沢だった母は、ことある度に
「ハンドバッグ買って…」
と猫なで声で父におねだりしていました。
その御用済みになったハンドバッグが
箱ごとびっしり押し込まれていたのです。
その押し入れの大きさから計ると、少なくとも
50個以上は並んでいたでしょうか。
それでも事あるごとにバッグを買い足してました。
不思議でした。
なぜそんなに買い足すのか。
一方、父のバッグは0個。
鞄を手にさげてた記憶はありません。
書類を入れるのは茶封筒で、それより大きな物は風呂敷へ。
父はどうも鞄を持つのが嫌いだったようです。
話はちょっとそれますが、
ワタクシの男友達でも鞄を手にするのが嫌で、
いつも手ぶら出勤をしている銀行マンがいます。
タバコ、ケイタイ、財布、ライター、メモ帳等は
すべてスーツのポケットへ収納。
ですから、常にポケットが丸く膨らんでいますが、
それはそれで何とも言えぬ男臭い味わいがあり、憎めぬ格好です。
男の中でも乙女志向の強いワタクシでさえ、普段使う鞄は2個。
仕事から遊び、冠婚葬祭までこの2つですべてこと足ります。
いずれも10年以上も前に買ったバッグで、
肩から斜めにさげてるボディバッグなんぞは、
電車に忘れたとしても、誰も拾ってくれないほどボロボロ。
ファスナーも機嫌の悪い日は締まりません。
気に入った鞄は廃棄処分までとことん使い込みますが、
数多く持ちたいとは思わないのが一般男性の鞄に対する考え方でしょう。
しかし、女性はまったく逆。
確かに、
男性に比べて女性のバッグの中身のアイテムははるかに多いです。
最低10種以上は詰まった化粧ポーチをはじめ、
デオドラント、ミニタオル、ウェットティッシュ、ピルケース、
オーラルケア、ガムにフリスクにキャンディ…
これらは一般的で、
小アゲ系ならこれにヘアーアイロン、スプレーが加わります。
女性の服には、ポケットが少ないので、バッグが必要なのは十分に理解できます。
しかし、そうは言っても取っ替えひっかえになる必要はないのでは…。
ここが男の理解が及ばぬところ。
たとえ、理解できぬとも、
女性の心の内のどの部分の本能がそうさせるかは計り知りたいところです。
一つには
心の不安定さがそうさせるのかも知れません。
不安定と言っても、たいそうなものではなく、
ちょっとしたストレス。
例えば、軽い嫉妬や上昇志向、迷い、生理や体調、
焦り、イライラ感等の不安さで、ごく日常的なもの。
その不安定になった心のブレを、
日常の「携帯」する物によって、まぎらわそうとしているのかもしれません。
例えば、アートネイル(この世の最も俗っぽいアート!)にしても、
それこそケイタイ電話のラインストーンてんこ盛り、ティッシュのフリルケースにしても、
普段日常に携帯し視界に入る物をできるだけ華やかに、
あるいは可愛くして自分の心とシンクロしたい。
そうする事で
不安定な心のブレをまぎらわしたいと考えるのかもしれません。
要するに、女性はいつも携帯している
アイテムの形や色、雰囲気に同調しやすいのです。
だから、数が必要。
ピンクを見たら、心はたちまちピンクになります。
薔薇柄を見たら、身体中が薔薇の化身になります。
ラメを見たら、きらびやかな心となります。
心のブレの種類は毎日違うのですから、
アイテムも毎日異なり、数もどっさり必要。
2個や3個では十分ではないのです。
エルメスのバッグを持てば、
ラグジュアリー感は満たされても、カワイイ感は満たされません。
エコバッグを持って社会参加できた満足感は得れても、
オンナの勝利感は得られません。
男にだって不安感はあります。
でも、それを日常の携帯する物でまぎらわそうするのは、
女性に比べ少ないように思います。
仕事や趣味等で心の高揚感を維持したいと考えるのです。
ですから、気に入った鞄なら一生涯ひとつでも十分満足。
鞄ごときに心は同調しないのが男性です。
女性は違います。
心とシンクロできるような、気に入ったバッグと出会えば、
もうそれだけで
ドーパミンからアドレナリン、βエンドルフィンまで総動員!
フゥ〜と陶酔状態となり、経済状態、収納スペース顧みず、
即手に入れます。
そう、女性のハンドバッグは
精神衛生面でも必需品なのでございます。
しかし、問題が一つ。
どんなに気に入り、タイマイはたいたバッグでも、どんなブランド高級バッグでも
必ず飽きてしまうのが困ったとこ。
そのスピードは男の比ではございません。
御用済みのバッグは押し入れへ…。
そして、一度飽きられたバッグは2度と陽の目を見ないのも、
凄いと言うか、潔いと言うか、残酷と言うか。
(バッグもオトコも同じ扱い…?)
誰にも遠慮はいりません、
買って、買って、買いまくって、
どうぞ株価も金利も上げてくださいませ!
世界の消費経済は
女性によって支えられているのでございますから。
投稿者 tadashi : 19:12 | コメント (0) | トラックバック
2009年06月25日
半襟の格

着物を見るのは大好きです。
趣味は日本舞踊で、下手くそなりに30年続けてますので、
着物に対してそれなりの目もあると自負してます。
歌舞伎やお能の伝統柄はもちろん、
女性の普段着である小紋や紬などの柄を見ていると
不思議と気分が華やいだり、穏やかになったり
と心地よくなります。
同じ柄でも、洋服のプリント柄や折り柄、刺繍は、きれいと感じこそせよ、
着物のようにここまで郷愁の感動を誘うことはありません。
そこが和服と洋服との感じ方の差です。
アイデンティティーやDNAと簡単に言ってしまえばそんなもんなんでしょうが、
生まれてこの方、日常ほとんどが「洋」の生活をしていているにも拘らず、
着物に対してしてここまで過敏に反応するのも不思議なものです。
そんな着物ですが、いざ自分が着るという段となると、
かなりおっくうになってしまいます。
見ると着るとではえらい違うのです。
日舞のお稽古等で人よりは着る機会は多いはずですが、
それでも何となく緊張します。
男の着付けですから、帯ひとつにしてもさほど難しいテクもなく、
貝の口(代表的な男帯の結び方)さえ覚えてしまえばあとはなんとかなります。
めったに着る機会のない袴は多少難しいですが、これも他人の手を借りるほどでもなく、
腰になじめさえすればそれなりに格好はつきます。
それでも着物を纏う時緊張させてしまうのは…
襟元です。
襟合わせが、なかなか自分のものにならないのです。
基本的に着物は全部同じデザインです。
袖の長さや、身丈の違い、みやつ口の有無があるものの、
男女問わずデザインはすべて同じです。
柄だけが違うのですが、紋付きともなると、
色もデザインも完璧に同じ。
制服みたいなものです。
ところが
襟合わせ、つまり襟元のデザインだけは、
着る人に委ねられるのです。
これは男物、女物を問わず着物すべてに言えます。
同じ着物でも、
襟合わせによって、全く違った雰囲気に見えてしまいます。
半襟の見え方や面積、Vゾーンの微妙な角度、
襟足の抜き方、緩め方等々で、
行儀の良さ、品、官能性、悦楽性、頭の良さ、あるいは悪さまでもが、
見事に露呈してしまいます。
優秀な時代劇の映画やドラマを見ていると、
その役柄の身分や性格や教養などを、
なんと
襟合わせだけで表現してたりします。
これなんぞは、着付け師の高度なテクニックと教養の深さの表れです。
このように着物は
着る人の人格が要求される、世界でも類いまれな民族衣装
なのでございます。
それやこれやと考えると、
紋付きはおろか、お稽古着すら襟合わせはいつまでたっても恐いものです。
自然に着物が肩に乗るまで、あと30年はかかるでしょうか。
ところで、ワタクシ個人な意見ですが、
女物の着物の場合、
半襟は絶対に白です。
しかも、できれば生地は塩瀬。
あらゆる着物に塩瀬の白が最も美しく映えます。
たとえ沈んだ地味な灰色の着物でも、白の半襟を顔のそばに置くことにより、
驚くほど清々しく華やぎます。
逆に、どんな派手な金蘭地の赤い着物でも、
生身の顔に合わせて、過剰な華美さをチャラにしてしまう力が
白の半襟にはあります。
最近、色襟や柄襟が流行っているようですが、
誤解を恐れず言うなら、とても俗っぽくなり、
頭までが悪く見えてしまうものです。
よほどの事がない限り色襟、柄襟はサイテーの選択でございます。
それほどまでに白い半襟には底知れぬ威力があるのです。
このように奥の深い半襟の世界ですが、
最高の水準まで格調高く着こなした日本女性がニ人いらっしゃいます。
一人は四世井上八千代。
京舞の宗家、井上流の先代家元です。
惜しくも98歳で2004年に天寿をまっとうされましたが、
亡くなる寸前まで舞われたその姿は、
言葉では言い尽くせぬほど毅然とした品がありました。
女史の襟の合わせ方は祇園花柳界独特の古典的なものです。
半襟を鈍角に詰上げ、着物は鋭角に合わせ、
白い半襟をたっぷりと見せます。
一般人が同じようにすると、完全に襟負けしてしまうほどの白面積です。
しかし、女史がなさるとそれは
芸術品!と呼べるほどの美しさです。
さて、もうお一人は
美智子皇后陛下です。
表面的には、一般にも通ずる極めてオーソドックスな襟の合わせ方ですが、
その微妙なバランスは、オーソドックスを超越して、
神の域まで達しているかのような品格です。
日本を代表する、
ナンバーワン半襟と言っても過言ではありません。
襟をじっと見ていると、その方の人格、人生観、豊かさまでが見えてきます。
お若い方々が、成人式で付け焼き刃で振り袖を着るため、
美容室に駆け込み着付けをしてもらってますが、
襟合わせだけは自分でできるように練習してください。
自分の格を決定するものですから、
決して人に委ねる部分ではありません。
それを感じ取れれば、
着物がもっともっと面白くなるはずです。
投稿者 tadashi : 16:22 | コメント (1) | トラックバック
2009年05月22日
ウソ発見眼

先日、「中年しゃべり場」というテレビ番組を観てました。
以前NHKで、若い世代の心の悩み、心の格闘の思いの丈をしゃべりまくるという
「しゃべり場」という番組がありましたが、
それの中年版。
オヤジ、オバサンの思いの丈を聞く企画です。
それを周りで見ているイマドキ若年達が時々意見をはさむ、
ワインヤードミーティング形式。
内容と言えば、別に取り立てて説明をするほどではなく、
はっきり言って退屈なものでした。
人生経験豊富な中年勝ち組と、人生未経験の若年層とのディスカッションでは
内容の構成はおのずと見えてきます。
そんな内容はどうでもよく、ワタクシが注目したのは、
そのコメンテーターのオヤジ方々の
頭の方。
そこそこ有名な評論家や学者らオヤジ4名が出演してたのですが、
そのうち一名が地毛。
うち一名が禿げ隠しとおぼしきキャップ帽。
あと二名がカツラ御装着。
つまり4分の3のオヤジが、
現状の人生にウソをついてるか、誤魔化しているわけです。
ですから、若年層に対して意見を言っても、何ら説得力もなく、
空虚に聞こえたのです。
ところで、カツラ御装着の2名、
そうとうに上質の高級ウィッグであるのは一目瞭然でございました。
いかにも取ってつけた不自然さはなく、つむじも、地毛との境界線も、とてもナチュラル。
ヘアスタイルもイマドキで、ウン十万円コースであるのは確実。
取り敢えずはお似合いでございました。
にもかかわらず!
バレちゃうんですよね〜
カツラって。
どんなに精巧、巧妙に作られても、どんなに高級であっても、
瞬時にしてバレバレでございます。
高いも安いも関係なし。
道ですれ違う10秒前からバレてますし、
満員電車の超至近距離からでもバレてます。
遠目でも近目でもバレるんですから、
こんなに見破り易いウソも珍しゅうございます。
それにしても、何故にこんなにバレやすいのか…
まず生え際の不自然さがあります。
確かに以前にくらべ最近のカツラは巧妙なテクで自然ぽくできてます。
しかし、自然ぽく見えるという事は、あくまで「ぽく」であって、自然では絶対ないのです。
自然でない理由は、うぶ毛と切れ毛がないこと。
つまり曖昧な毛が一本もないのです。
きれい過ぎるのです。
人間の毛は曖昧だらけ。
一本づつ太さも弾力も微妙に違っています。
そして、もう一つ。眉とのバランスが悪い。
濃い眉の人はまだ誤魔化しがきくのですが、薄い眉の人の場合がどうもバレ易いのです。
眉が薄けりゃ、地毛も細いはず。
なのにカツラ毛はやたら太く健康的だから、
何とも言えぬ、不自然極まる人工臭さが漂うのでございます。
だいいち、細い毛の人は顔の毛穴も小さく肌のきめも細かそう。
なのに頭皮だけが大きな毛穴であろうはずがありません。
このあたり、カツラメーカーも肌との関係も考慮して製品開発をして頂きたいと思ってます。
それでもバレるのでしょうがねぇ…。
さて、偽物は本物を凌駕しようと、あらゆる手段を講じます。
その手段は、姑息、あざとさ、水増し、メッキ…と多種多様。
本物に近づこうとすればするほど、この小さなウソはどんどん拡大されます。
作り過ぎたイマドキスタイルや、しらじらしい白髪の割合等々。
つまり、
本物に近いカツラほど、ウソの技巧も高度で、パワーも強い分、
バレ易いのでございます。
完成度が高過ぎると、ほんの僅かな違和感が見ているうちに、どんどん拡大され、
ウソ臭くなるのです。
造花や食品サンプルと同じ。
もちろん、かつらだけの話ではありません。
それらは、この世のありとあらゆることに通じます。
バッグ、骨董、絵画、そして人、もちろんオトコも。
ウソを見破るには、ウソ発見眼を養わなければなりません。
まずは
対象物をじっと見つめるべし。
落ち着いて。偽物は人の焦りにつけこんできます。
ひと目で簡単に魅了されてしまう要素があれば要注意。
本物の魅力はそうは簡単には理解できません。
本物を知るには時間がかかるのです。
偽物は、あざとくも姑息な手段で人を眩まします。
それが魅力と見えれば、騙された方が悪いのです。
焦りがそうさせます。
カツラもオトコも同じ。
ですので、
カツラ装着のオトコは御用心!
いつも、バレバレの嘘を真面目顔でつかれているようで、滑稽ですらあります。
あっ、ことわっておきますが…
被りたいのに、今さら被れない嫉妬から申し上げてるのではごさいませんでしてよ、
念のため。
投稿者 tadashi : 16:29 | コメント (4) | トラックバック
2009年04月27日
保湿ケアの奥の手

ワタクシ、50才を過ぎた頃から、お肌のある異変に気付きました。
カユイのでございます、足が。
ふくらはぎのちょっと下、
靴下のゴムがしめつけられる、その辺りが
異常にカユイのでございます。
若い頃はどうってこともなく、
ハイソックスのきついめゴムもへっちゃらでした。
それがこの数年、
ちょっとのしめつけに対しても敏感に反応し、
ついボリボリ掻いてしまうのです。
ひどい時は就寝中も無意識に掻いているようで、
朝には靴下ゴムのラインに沿って、
かさぶたがくっきり。
そもそもはワタクシの顔、体は
皮脂が出やすく新陳代謝も旺盛なタイプ。
なので、洗顔後も入浴後もクリームやローション要らずで、
何もケアしなくとも、数分後には
天然皮脂がジンワリ湧き出て潤うのです。
ともかく、「何もしてません、しっとり自慢」の
超安上がりスキン人生でございました。
しかし、ここに来て加齢には勝てません。
顔はまだしっとりが持続しているのですが、
足辺りから徐々に
乾燥化が忍び寄って参りました。
新陳代謝の鈍化でございます。
そうなると保湿クリームの力なしでは生きて行けません。
就寝前にクリームを塗るのですが、
数時間後には乾燥化がはじまり、
朝には元の砂漠足となっています。
原因は2つ。
一つは洗い過ぎ。
いくらボディーソープで泡立て洗浄しても、ゴムでしめつけたルートは血流も悪いので、
皮脂再生が遅く乾燥劣化も著しいのです。
なら、洗剤で洗わなければいいのですが、
やはり1日の仕事の汚れはサッパリ落としてリフレッシュしたいもの。
そこで先ほどの保湿クリームで補うわけですが、
その塗るタイミングが難しいのです。
それが2つ目の原因。
以前のエッセイでも述べましたが、
入浴後の乾燥化は僅か40秒後から始まるのです。
入浴中は表皮に水分がたっぷり含み、
潤ったしっとり肌となって見た目もまんざらでもありません。
しかし、
その潤いはあくまで仮住まい。
バスタオルで水分を拭き取った瞬間から、
水分は空中へと逃げてしまいます。
その間がデータによると僅か40秒というわけです。
なので、
保湿クリームは40秒以内で塗れるか塗れないかが勝負の分かれ目。
40秒以内で塗って、
仮住まい水分をコーティングして
角質層に閉じ込めよう
というわけです。
でもねぇ、
ワタクシも40秒以内のクリーム塗布は何回もトライしてるのですが、
やっぱり難しゅうございます。
体を拭き終えるだけでも軽く1分。
ほっとひと息つくと、もう3分。
そこでテレビなんぞ見ようものなら砂漠化は容赦なく進行いたします。
風呂上がりくらい、バタバタしないで優雅にしたいものでございます。
そこで、ない知恵を絞って考えたのが、
リンス保湿法であります。
お手持ちの保湿クリーム、
できればもう一つお買い求めくださいませ。
それをお風呂場にも一つ置いておきます。
脱衣場ではなくお風呂場に置くのです。
顔や体を洗浄し、すすぎ終えたら、
塗れたままで結構ですので、
保湿クリームを適当にぱぱっと塗っちゃいましょう。
できれば、
顔は顔専用の、体は体専用のクリームをご用意ください。
塗り終えると、また軽くすすぎます。
ほんの軽くで結構です。
これはクリームを流し落とすという意味ではなく、
体全体に行きわたらせるためです。
そして、いつものようにタオルで拭き取ってください。
ちょうどヘアシャンプーの後、リンス剤やトリートメント剤を塗った後に、
さっとゆすぐあの要領でございます。
つまり、これは仮住まい水分を仮コーティングしているのです。
あくまで仮ですので、本塗りはその後に必要です。
でも、とりあえず仮コーティングさえしていれば、
40秒以内なんていうのバタバタ保湿をしなくとも余裕綽々でございます。
5分後でも10分後でも、
テレビドラマやモーツァルトを聞きながらでも、
おもむろに本塗りする事ができます。
ワタクシの場合は、入浴直後は冷蔵庫に直行してC1000タケダを飲むのが日課。
この爽快感を味わうために生きているようなもので、
我が至福の時でございます。
C1000タケダの前に保湿ケアなんて考えられないのございます。
お陰様で、この保湿方法で今年の冬は、
入浴後も優雅なひとときを過ごせるようになりました。
そして、かさぶたラインも何処へやら。
砂漠肌でお悩みの方、しかも入浴後バタバタしたくない方、
是非ともお試しあれ。
投稿者 tadashi : 16:50 | コメント (0) | トラックバック
2009年03月23日
オトコはどこを見ているのか

ちょっとばかり以前、タイトルはすっかり忘れてしまいましたが、
男と女について考えるドキュメント番組がNHKで放映されました。
なかなか面白く、ちょっと考えさせられた中身だったので
今回取り上げてみます。
今からの内容は、その番組からの受け売りが半分でございます。
まず、
オンナはオトコを選ぶ時、オトコのどこを見ているかです。
顔?…ノー
身長?…ノー
大胸筋?…ノー
大褪筋?…ノー
では、知性?
…半分ノー
オンナはオトコの姿や形なんか見ていず、
オツムの中味も覗いてません。
実はオンナはオトコの行動を見ているのだそうです。
その行動とは、
単なるよく動くとか、エネルギッシュとか力強いとかいった
単純なものではありません。
オンナをいかに助けてくれるか、あるいは救ってくれるかを
行動によって見極めているのだそうです。
これには深〜いワケがあります。
ちょっと、ご説明しましょう。
人間は他の生物と異なるのは、2足歩行であること。
2足歩行は手を自在に操れ、道具を扱うことができ、高い知性が備わっています。
しかし、その反面大きなデメリットもあります。
二足歩行は体型上、あるいは体力上、下腹部に負担がかかるため
子宮内胎児が成熟し大きくなるのは不可能なのです。
なので、未熟児のまま出産せざるを得ないのです。
例えば、
馬なら産まれたての子馬でもスクッと立ち上がり、母馬の乳をすぐに探します。
鯨でも産まれた瞬間、素晴らしい泳ぎを見せ、母鯨と伴走します。
他の動物も同様で、
人間の赤子に比べ、はるかに成熟した状態で出産できます。
しかし、人間の赤子の歩行は出産後、なんと一年以上もかかります。
食事も授乳から離乳食と何段階も踏まなけれなりません。
母親には大変な負担がかかってしまいます。
現代なら何とかなるでしょうが、原始の時代では、
周りに恐竜や猛獣もいるでしょうし、
母親一人の育児では過剰な負担が強いられてしまいます。
そこで必要なのが、オトコの助けです。
きちんと食料を運んでくれるか、
きちんと敵から母子を守ってくれるか。
きちんと育児を手伝ってくれるか。
オトコと出会った瞬間に、
その行動から母子を守ってくれるか否か
を見極めようとしているのです。
人類ほど出産育児においてオスの助けがいる動物は他にいないのです。
では、では、
オトコがオンナを選ぶ時、どこを見ているか?
顔?…ノー
肌?…ノー
行動?…ノー
知性?…ノー
バスト?…ノー
実は
ウェストとヒップの比率を見ているというのです!
その比率も黄金比があるそうで、洋の東西問わず万国オトコ共通との比率。
ミロのビーナスなんぞはピッタリそれにはまっているそうでございます。
その黄金比ですが、4:6だか3:7だか数字に弱いワタクシはすっかり忘れました。
スイマセン…。
そのウェストとヒップをオトコが見るのは、
ただ単純に性欲だけで見ているのではありません。
その視線の奥には、
多くの子孫を残せるだけの力強いヒップ(子宮)を持ちあわせてるか、
それを見ているというのです。
性欲とは単純にそういうもんです。
いずれにせよ、男女とも異性を見る時、
種の存続と繁栄という大命題があるわけです。
この世に生を受けた、すべての生物の課題です。
しかし、です。
ちょっと待てよ…。
男女とも種の存続という共通の大命題があるにせよ、
見ている所は明らかに異なるではありませんか。
オンナは行動、
つまりは、その向こうにあるオトコとしての技量、つまりは内面を見ようとしています。
しかし、オトコはヒップ
という外見のみを見ているではないですか。
内面と外見…
この男女のギャップは物凄いと思いませんか?
もちろん、
すべてのオトコが外見のみでオンナを選択しているわけではないでしょうが、
確かにオトコ3人よればオンナのボディ下ネタ話になりますし、
オンナ3人よれば、オトコの行動批評大会でかしましくなります。
そう言えば、なるほど納得とガッテンすることが多々あります。
オンナはオトコの行動をつい制約したがります。
どこへ行ってたの?
何してたの?
そんな事やめてよ!
早く決めてよ!
etc
と、オトコの行動を制約したがります。
一方オトコは、
髪長くしろよ。
化粧ぐらいしろよ。
そんな服着るなよ。
と、まあ外見を強引に自分好みにしたがります。
そうすることでオンナを視覚によって独占しようとします。
オトコとオンナの痴話喧嘩がいつまでたっても平行線なのはこのせいです。
いずれにせよ、明確な事…それは、
オトコは中身、オンナは外見!
オンナがおしゃれに、しこたまお金を費やすのもこのためであります。
冬空の下ミニスカートからのナマ足も、
補正下着でがんじがらめになるのも、
不自由な指の動きでラメネイルてんこ盛りするのも、
肌荒れしてもファンデーションがっちりガードも、
まさに身を削ってまでも外見を競うのは、オトコの視線を知っているため。
外見のみでオンナを判断してるなんて、そんなオトコ、サイテー!
なぁんて考えないように。
それが現実なんですから、潔く認めましょう。
ほ〜ら、今日もプリプリのリップグロスをたっぷり塗っているではないですか…。
投稿者 tadashi : 14:36 | コメント (1) | トラックバック
2009年02月25日
オバマ演説の2つの謎

まぁ、それにしてもご立派な就任演説でございました。
20分間、ほとんど噛む事なく、
立て板に水の如くの流暢な演説は
過去の大統領での中でも屈指ではないでしょうか。
演説というより、
立身出世の典型的ハリウッド映画の
お涙ラストシーンを見ているようでございました。
ケニアから裸一貫で移民してきた父を持ち、
低所得層から這い上がり、
米国ナンバーワンの地位にまで登りつめた一世一代の大舞台。
27才の才智あるライターが書いた内容とは言え、
その一言一句をすべて自分自身の全身から発する言葉として変換できる能力は
まさに千両役者の風格。
ヨッ!ホンモノ大統領〜!
その昔、昔、ローマの元老院で民衆を前に感動を呼び起こした
ジュリアス・シーザーの名演説は
かくのごとくではなかったかと想像します。
文献によるとシーザーの演説は、
元老院の博識ある貴族達は勿論、教育を受けていない奴隷や娼婦達まで、
ありとあらゆる階層の人々の心に届く、
非常に分かりやすい言葉を駆使しながらも、迫力に満ちた語りっぷりだったようです。
その声は、広場の隅々まで朗々と響きわたる特別な声を持ち、
独特の韻律で民衆の心を捉えたと想像できます。
オバマ氏も同様、
黒人独特の響きのよいバスバリトンで4ビートの韻律をもって、
分かりやすい言葉で、
あらゆる人種の心に訴えかけ感動を呼び起こしました。
カリスマの演説で重要なのは、
この独特の韻律を持っていること。
韻律で立て板に水の如くまくし立てられると、
相手を煙に巻くことができます。
どんな名演説にも多少の矛盾はつきもの。
それをサラッとかわし、煙に巻くのが名韻律です。
オバマ氏の就任演説を聞いていると、
英語なんてチンプンカンプンなワタクシでも、
その韻律に聞き惚れ、妙に納得させられちゃいます。
姿よし、顔よし、オツムよし、声よし、大胸筋よし、歯並びよし、歯磨きよしの、
よしよしずくしのまさにホメ殺し大統領でございます。
が、
エレガンスの伝道師はとてもイジワル。
そうは問屋が卸しません。
テレビで何回か観ているうちに2つの謎に気付いたのです。
まず1つは首振り大統領である事。
視線と顔方向が一致して、流し目なんてお下品な手段を使わないのは
さすがに品格ある大統領でございます。
しかし、
その視線と顔は必ずと言っていいほど右端か左端!
つまり絶対に正面を見据えないのであります。
そのため一句ごとに右へ左へと、
せわしく首振り状況となります。
ご本人は視線を公平、平等に投げかけているつもりでしょうが、
大多数を占める真正面を一度も斬らないのは
何故…?
真正面のオベリスクのはるか果てまでには、
200万人の民衆が居並び、
その200万人の視線は大統領一点に注がれているのに、
手みじかな至近距離の右側と左側の隅にしか目線を返さないのは
何故…?
まさか、
大多数を無視して社会の隅のマイノリティの一部にしか
視点をおいてないんじゃございませんでしょうねー。
そしてもう一つの謎。
ワンフレーズ終えると口元をすぐに閉じてしまう事。
これもとても謎。
どんなに笑顔の時でも、
ワンフレーズごとにあの白い歯が肉感的な唇によって
ピシャリと閉ざされるのであります。
どうって事ないと思われましょうが、
これって考えてみるととても不可思議な行動なのです。
ワンフレーズ終えると次のワンフレーズのために息継ぎが必要なはず。
普通はそのために軽く口を開け、息を吸わなければなりません。
しかし、
彼の口は完全に閉じています。
彼の中に一種独特の冷やかさを感じるのはそのせいです。
日本の首相なんぞ、歪んだまま開けっぱなし口で
親近感丸出しでございます。
オバマ様が口から吸っていないとなれば
鼻から吸っているとしか考えられません。
でも、あのような立て板に水の如く流暢に喋っているとき、
とてもじゃないですが鼻からだけの息継ぎでは酸素容量が足りないはず。
あるいは、
鼻腔の広さが我々日本人とは桁外れに広いのか…。
それにしても、息継ぎの時、
あの美しき大胸筋が全く揺れないのも
これまた不可思議。
息を吸っている気配を全く感じないのでございます。
ひょっとして、息をしてないの?オバマ様。
こんな超人的な大統領に、
日本の小使い首相は太刀打ちできるのかしら。
ちょっとでいいから口から息をお吸いになれば、
もう少し親近感も湧き、
我が首相も怖じけつかないかと思われます、オバマ様。
投稿者 tadashi : 13:40 | コメント (2) | トラックバック
2009年01月27日
なぜオンナは年上のオトコを選ぶのか

厚生労働省の統計によると、
平均初婚年齢は2006年度は男性が30.0才 女性は28.2才。
その差が1.8才
フーンそうか、と言う事はワタクシなんぞは、
うんと平均以下更新中となります。
で、ず〜とさかのぼって100年前、
つまり1910年度の統計をみると、
男性は27.0才、女性は23.0才で、その差4.0才。
この100年ほどで、その男女差は3.2才縮まったわけです。
その背景には、女性の社会への進出や生活自立、
あるいは逆に男性の生活力の不甲斐なさか…。
いずれにせよ、収入に対して、衣食住や学費、
生活全般の経費の率が格段にかかる現代では、
女性の婚期が遅れるのは仕方ないかもしれません。
しかし、その差が年々僅差になったとは言えども、
男女が逆転した事は、
厚生省が統計を取り出して以来この100年、
一度もないのです。
つまり、オンナがオトコを初婚の対象として選ぶ時、
年上がほとんどと言うわけです。
夫が年上なんて当たり前のようですが、
よくよく考えてみると不思議です。
年功序列の社会が崩れつつあり、
実力社会になりつつある現代においても年上を選ぶのは、
今も昔も変わりありません。
もちろん年上女房に甘え上手のオトコや、
若いオトコを可愛がるのが好きなアネさん女房もいるにはいますが、
やはりそれはごく一部。
圧倒的にオンナは年上のオトコを選びます。
当然、頼りがいがある、甘えたい、経済的問題等々があるでしょうが、
果たしてそれだけの理由だけでしょうか。
ここにひと組の実在のカップルがいます。
ワタクシの知り合いの知り合いで、早い話がアカの他人ですが、
オンナ25才、オトコ67才。
その差なんと42才で、あとひと息で半世紀!
とは、言ってもさほど珍しい事ではありません。
欧米でも日本でも50才以上離れているカップルはワンサカいて、
さほど奇異な光景でもなく、それなりに仲睦まじいようです。
しかし、その逆となるとかなり奇異。
いくら年上好き、熟女キラーのオトコでも、
50才も年上のオンナを好きになるなんて、
聞いたことも見た事もありません。
マザコンオトコはいても祖母コンオトコはいないのです。
それに反して、ファザコンオンナの中には、
祖父コンオンナも潜んでいるのです。
歌舞伎役者の中村富十郎様は33才年下の女性とご結婚なさり、
70才の時、初めてのお子さんを授かられました。
このあたりにヒントがありそう。
大きな理由のひとつに生殖能力の差かもしれません。
オンナが子供を産めるのはせいぜい40才。
閉経と同時にハイ終了で御用済み。
しかし、オトコが子供を産ますのはエンドレス。
オス自身の寿命がなくなるまで、
なんぼでも、どこでも、いつでもでございます。
オトコは死ぬまで、多少劣ることはあっても、
生殖能力がなくなることはないそうです。
つまり、オスは己れの優秀なる遺伝子を後世に残すがため、
一生涯を費やすことが可能なのです。
幸いなことに、
精液の製造元に老いも若きも関係ございません。
創立100年の老朽化した工場も
10年少々の新築工場も、
出来上がりの精子は全く同じ。
要はその遺伝子が優秀か否かであります。
だとすれば、若いオンナが50才も離れた、
加齢臭漂う年上のオトコに惚れ、
母性が揺れ動くのも納得できます。
オンナの多くが常に年上を求めてるのは、
長期間使用可能なそのオスの生殖能力にあると考えております。
世のオンナ達よ!
オトコには賞味期限があっても消費期限はございません!
なんぼでも、どこでも、いつでも!
投稿者 tadashi : 13:00 | コメント (4) | トラックバック
2008年12月29日
悲しみゴージャス効用

今回はちょっとマジなお話でございます。
素敵なもの、感動するもの、カッコイイものを見たり聞いたりすると、
最近の若い世代は「スゲー!」とか「ヤバッ」とか呟きます。
ワタクシの場合は「ゴージャス!」と呟きます。
ゴージャスって言葉、直訳すれば豪華とか豪奢とかいう意味なん
でしょうが、ワタクシの場合はもう一歩踏み込んだ意味で使います。
それは「豊か」という意味。
豊かという言葉が大好きでございます。
ワタクシの人生において、最も大切にしている指針の言葉の一つです。
金八先生のようで恐縮でございますが、
意味を知るにはまずは字の解体から始めなければなりません。
豊…豆の上に曲がると書きます。
つまりは十分豆が実って重さで茎が曲がる
という意味であります。
様々な栄養、日光、水を含んで成長した豆は美しく、我々を魅了します。
豆だけの話ではありません。人も同じ。
勿論、お金や財産のような物質だけの豊かさの話ではありません。
心の話です。
知識、教養、健康、経験…
それらの栄養素をいっぱい含んでいる人を
豊かでゴージャスな人とワタクシは呼んでいます。
その栄養素の中でも、特に重要なのは経験。
様々な事象を経なければなりません。
楽しい事ばかりの経験が人生が、
人を豊かにしないのはご承知のとうり。
よく人は幸せな人生を送りたいと考えますが、
幸せな人生と豊かな人生とは全く別物で関係ない
と考えてます。
幸せ感とは豊かさの単なる一部、一要素であって、
すべてではありません。
不幸感も豊かさにおける重要な要素だからです。
阿鼻叫喚の地獄絵から狂喜乱舞の天国図まで、
あらゆるシチュエーションを人間は経験しなくてはなりません。
つまり泣いたり笑ったり、嘲たり嫉妬したり、
優越感や屈辱感、そんな様々な感情を呼び起こす出来事をより多く経験する事。
ただ、経験するだけでは豊かになりません。
それらの経験を栄養にし、身につけなければならないのです。
そして、あらゆる感情をコントロールできる力。
それが知識と教養です。
知識と教養によって、経験がはじめて栄養となり、
豊かな人生つまりゴージャス人生になるとワタクシは考えております。
そうは言っても悲しみは誰だって嫌です。
できることなら避けたいものです。
でも、大丈夫。
悲しみにも、ちゃんと効用というのがあるのです。
悲しみも人の心を豊かできるのです。
つらい事、悲しい事が起こると人は自分の心の奥底に入っていきます。
不幸は自分の心と真正面から向き合う絶好のチャンス
なのです。
例えば、失恋して悲しい時、
自分の性格を知らず知らずのうちに分析しています。
自分の心の狭さ、寛容の無さを見つめています。
最愛の人との別れが永遠に来た時、
自分の孤独感、寂寥感と懸命に戦ってます。
しかし楽しい時、嬉しい時、笑っているとき、
人は自分の心とは向き合わないのです。
自分の心を素通りして笑い転げているだけ。
楽しい事ばかりだと自分自身と対峙できません。
笑っているだけでは、アホな人生となるのでございます。
それと、もうひとつ。
悲しみは人と人との心の絆を深める事ができます。
悲しみは人の心の寄り添いを必要とするからです。
当然ながらそれによって他の人の心の痛みも理解できます。
悲しみはきちんと向き合いさえすれば、必ず栄養分となります。
豊かな人生の中には幸福栄養素も
不幸栄養素も含まれるのでございます。
ワタクシは幸せ人生よりも、豊かな人生にしなくてはならない
と考えています。
さらに大事なことをもう一つ。
ゴージャスな人生になった暁には、
豊かさを必ず他の人に分け与えること。
豊かさは循環しなければならないのです。
自分の心の内で独り占めすれば、
豊かさは一瞬のうちに色褪せケチで貧しい心となります。
貧しさに人の心は動かされません。
人は勿論、命ある生るものすべては
豊かさを求めるのです。
とまぁ、今回も説教がましくなり、お坊さんのようになってしまいましたが、
ワタクシ自身がそういう人生だというわけではなく、
自分自身にそう言い聞かせてながらの人生修行中。
悲しい時、つらい時はゴージャス!ゴージャス!と呟きながら、
その場を乗り越えております。
それが悲しみを克服する時の秘訣でございます。
嬉しい時もゴージャス!悲しい時もゴージャス!
でございます。
投稿者 tadashi : 10:58 | コメント (3) | トラックバック
2008年11月29日
中華そば屋の男祭り

我がマンションは繁華街から少し離れてはいますが、
休日となれば閑静な住宅街となります。
その我が家の細い通りをはさんで真向かいに、
突然赤い張りだしテントがついた小さな店できたのです。
間口一軒あるかないかのその店は、
カッコイイとかイマドキとかいった店ではなく、
どちらかと言えばダサイめ。
ともかく赤いテントさえ目立てばいいと言う、
昭和商店街風のお店であります。
そしてなんと、そのダサ昭和の店が、なんとオープンの日と同時に
ずらりと行列ができたのであります。
多い時で10人以上、少ない時でも2〜3人が、
雨の日も風の日も絶えず並んでいるのです。
我が家のベランダからよく見えるのですが、
その行列は住宅街には不似合いで不思議で不気味。
店の正体は「中華そば」
ラーメン屋さんではなく、中華そば屋さんでございます。
蕎麦は大好きでもラーメン系麺には全く興味がなく、
評判の店にも行った事もないワタクシにとって、
中華そばとラーメンの違いなんてどうでもよく
横目で通り過ぎておりました。
しかし、開店五分前にはすでにずらりと行列が形成されてますし、
その10分前には行列にいち早く並ぼうとする
ツワモノ達が駅から走ってくる様は、
まさに駅伝か神社の福男ダッシュのようで尋常ならざる光景。
フンッ、中華そばごときに…
と上から目線で眺めていたワタクシも、
こんな状況を毎日目の当たりにしてしまうと、
やはり人の子でございます。
並んでまでも食べたい中華そばはいかほどかと、
日ごとに好奇心はつのるばかり。
先日、小雨の降る夕暮れ時、
前を通ると店の前には誰も並んでなく、
空席もありそうな気配。
これは奇跡!
宝くじに当たったようで勢いに任せて
思わず暖簾をくぐり抜けました。
丸い時計が一個あるだけの店内は全く飾り気なしで、予想以上の狭さ。
なんとカウンター五席のみ!
そしてメニューは中華そば一品のみ!
他は何もナシ!
オーナー(意外とお若いオタク系)一人で
すべてをまかなっているためか、
自分のキャパを越えないようにしている
その真摯な姿勢に好感度は上がります。
普通、ラーメン屋さんの厨房というと、
鍋やお玉やザルの音でガチャガチャした騒々しさを
想像してたのですが、
さにあらんこの店はとても静寂。
何よりもオーナーがバタバタせず
ゆったりしてらっしゃるのがおよろしい。
これまた好感度アップ。
カウンター越しにみると、
チャーシューを切るにしても麺を椀に盛り付けるにしても、
焦らず泰然自若となさっておいでです。
客が貧乏ゆすりしてようが一切関係ナシで我関せず。
まるでお茶の作法を見ているようで、
丁寧そのものでございます。
しかるに、注文してからはゆうに
10分以上はかかります。
そりゃ〜行列できるわいナ〜…と独り呟いておりました。
さて、肝心のお味でこざいます。
ひと口スープを飲んだ時の感想は、
正直言ってフクザツビミョーなものでございました。
まずいかと言えばノー。
旨いかと言えば、う〜ん…。
何とも言えぬ複雑なだ汁でございます。
喉の奥にからんんでしまう独特のエグ味があるのです。
聞けばここのだし汁は鶏ガラと煮干しのミックスだそうで、
最近はこういったダブルスープが流行りとのこと。
あぁそうか、あの独特のエグ味の原因は
このダブルスープにあったのかぁ。
煮干し汁を混ぜると「ラーメン」ではなく
「中華そば」と呼ぶのかもしれません。
鶏ガラは鶏ガラ、煮干しは煮干し、
トンコツはトンコツと単純スープの方が、
ワタクシの舌の引き出しは整理しやすいので、
この複雑な味はワタクシにとって解読不能でございます。
ケチャップとマヨネーズを混ぜた
ケチャマヨトーストを初めて食べた時ような、
あるいは生まれて初めてビールを飲んだ時のような感覚、
それを思い出します。
あの長い行列を日々見せつけられ、
期待のみが先行していたせいか、
ショックも大きゅうございました。
ワタクシが期待してたのは福臨門や中国飯店のような
洗練されたスープ汁。
それを我が庶民の街で望んでいたワタクシが間違いございました。
それにしても、走って並んでまでの味かいナ…
とチャーシューを頬張りながら考ておりました。
スープも飲みほした頃、ふと顔を上げると店内は知らぬ間に満席。
外にもかなりの行列ができているではないですか。
驚いたのは、行列の長さではなく、その性別の方。
すべてがオトコ!
店の中も外もオトコ、オトコ、オトコ!
老若問わず、あらゆるジャンルのオトコのオンパレード。
まるで男子寮にまぎれ込んだような、
殿方厠待ちのような、野球部の合宿にいるような…
これは男祭りではござんせんかっ!
オンナ、子供、オカマなんぞは及びでないっ、と言わんが如し。
しかもグループ、友達同士は僅かで、ほとんどが単身。
カウンターにならんで黙々とどんぶりに向かってる姿は
厠の用足しのような風情でございます。
ズーズーと音をたて、犬食いのごとく脇目もふらず
必死になってエグ味中華そばに食らいついている姿は、
哀れというか、情けないというか、可愛いというか。
ひょっとしたら、オトコ共は
このエグ味が大好きなのかも知れません。
ビール臭さを筆頭にレバー、
塩辛、蟹味噌、スルメ等々のエグ味。
単純に苦いとか、しょっぱいとか判別できない
フクザツな味です。
舌の奥の方で感じとれ、ムッとする僅かな酸味。
腐敗臭とまではいかないですが、独特のケモノ臭さ。
息を吸い込む時よりも、吐き出す時の方がより感じ取れます。
このエグ味を捉えると、
唾液腺が刺激され食欲が増進するのかもしれません。
オンナがストレスを感ずるとスイーツを欲しがるように、
オトコはエグ味でストレス解消するのかも。
あるいは、このエグ味が
オトコの闘争本能を刺激するのかも。
そう考えて見ると、中華そばを食べ終わったオトコ共は、
実に爽快で血気はやる高揚顔ではありませんか。
オトコにとって、エグ味はオスの本能を刺激するものかも。
この中華そば屋さんはオンナ、子供、
オカマの立ち入れない神聖なる領域かもしれません。
男祭りをご覧になりたければ、この店へどうぞ!
血気はやるオトコ共の単純明快な思考の一面を知る事ができます。
それにしても、走ってまで、並んでまでの味かいナ…
と、ブツブツ言いながらも、すでに五回通っております。
ワタクシも一応オトコの端くれ、見事ハメられました。
投稿者 tadashi : 10:37 | コメント (1) | トラックバック
2008年10月31日
バリケードファンデーション

女性達にファンデーションて何?と聞くと、
大抵は「シミを消すもの」とまずお答えなさいます。
もちろんこれは間違い。
「シミを隠すもの」が正解。
某国の某女史のお話。
彼女は容姿端麗にして鋭敏明晰。
才色兼備を自他ともに認める絵に書いたようなキャリアウーマンであります。
小さな池に咲く一輪の百合のようなお方でございます。
その才覚ゆえ、関西の大学中退後はエジプト留学なさり、
帰国してからはニュースキャスターを経て、政治家となり、
遂には大臣を二回もお務めなさった
出世街道まっしぐらのスーパーウーマン。
弁もなかなかお立ちで、関西生まれの関西育ちでありながら、
関西弁なぁんて田舎言葉は微塵も発せられないお上品さ。
たとえ辛辣な一言を発せられても、
その直後に艶然たる微笑みで毒気を浄化する術も
お持ちでございます。
オトコ社会のおだてに弱いのか、
あるいはすぐ調子に乗ってしまうのか、
はたまた大いなる野望をお持ちなのか、
某保守政党の総裁にまで立候補なさいました。
キツネ顔がもてるか、タヌキ顔がもてるかといえば、
当然タヌキ顔でございます。
下マスカラを強調し目尻を下げ、
ついでに眉も下がった愛くるしいメイクをなされば
モテ顔タヌキメイクの出来上がりとなります。
しかし、キツネもタヌキも
化けてることには違いなし。
つり上がったキツネ目で化かすより、
愛嬌あるタヌキ顔で化ける方が人を騙しやすいと
よくご存知であらせられます。
女史はこのメイクで政界に勝負に出ました。
しかし、私クシが気になるのはそのタヌキメイクではなく、
基礎工事のファンデーションの方であります。
あののっぺりファンデーションが
プロとしては気になって仕方ないのでございます。
ご自身によれば、ご使用のブランドはクレ・ド・ポーとか。
クレ・ド・ポーと言えば、世界屈指の 超高級ファンデーション。
一個12600円也!
ファンデーションの最高峰。
まさに金字塔ファンデーションであります。
私クシも仕事で使っておりますが、
まず大変にカバー力があるのが特徴。
そのわりには伸びもよく、
容器も複雑な構造極まりなく(百聞は一見にしかず、店頭でご覧ください)
ラグジュアリー感に溢れるファンデーションでございます。
大変に優れたファンデーションでありますが、
優れているからと言って扱い易いかどうかは別問題。
フェラーリが免許証取り立ての初心者にとって扱いずらいのと同じこと。
どんなに伸びが良くても、カバー力が強ければ、
塗ったところと塗っていないところ(地肌)の差は歴然でありムラとなり、
その操作には高度な技術がいります。
女史ご本人の雑誌インタビューによれば、
目の付近に小さなシミがおありになるとか。
へぇー、そんなものがあったとは全く気付きませんでした。
高画質ハイビジョンの画面でも全く捉えることはできません。
あっばれ!クレドポー!
あらためてその威力を思い知ることがりできました。
と、同時に
その小さなシミが、女史にとっていかに気に障る問題か
も察せられます。
しかるに、数あるファンデーション中から、
カバー力に優れたクレドポーをお選びなのも納得いたします。
クレドポーは操作が難しいと申しましたが、
女史はこれを扱う高度な技術をお持ちでした。
それが却って裏目にでたのです。
小さなシミをカバーするため、
お顔全体までムラなくまんべんなく塗るテク
をお持ちなのです。
我々プロがメイクをする時、
雑誌やテレビの場合はしっかりとカバーして小さなシミも見逃しません。
洗練された非現実的な女性を作るのが仕事。
しかし、モデルでも女優でもない一般女性がこれをやると、どこかで本音を隠し嘘をつかれているような気になります。
のっぺりファンデーションで顔を覆うと、
バリケードを張られてるようで、
こちらまで本音で話ができません。
これは政治家にとって致命的なメイクでございます。
これは私クシの私見でございますが、大したシミでもないのに、
ファンデーションで顔全体をしっかりカバーしている人は、
心もどこか閉ざしています。
顔のシミも心のシミも同じ。
自分の心の奥底、見透かされたくない部分を消しているという、錯覚です。
そう、それは消してるのではなく、隠しているのです。
一般女性から見て、女史が人気がなく、
あるいは嫌いと言う意見が多いのは、
何となくこのあたりを見破られているのでしょう。
嘘をつかれている、シッポを隠してる、
猫被っている、可愛さでごまかされてる…
クールビズを声高に提唱なさっても、あの暑苦しく、
厚ぼったいファンデーションからは何の説得力もなく、
虚しく響いただけでございました。
そして今回の総裁選では、タヌキメイクや
バリケードファンデーションの甲斐もなく見事落選なさいました。
女性陣だけでなく、政界オジサマ方も、
この胡散臭さを見破ってたのかもしれません。
もしも女史が当選なさってれば、
日本中は本音隠しのファンデーション国家となっていたでございましょう。
シミはいくら隠してもファンデーションの下にも、
心の底にもしっかりと存在しているのでございます。
ファンデーションは度が過ぎるとバリケードとなります。
いっそ開き直って、シミを解放してはいかがでございましょう
某女史サマ。
誰にも迷惑かかりませんでしてよ。
その方が政治家として見ていても安心いたします。
投稿者 tadashi : 14:59 | コメント (1) | トラックバック
2008年09月29日
デカ顔礼讚2

今からざっと半世紀前のお話。
その頃、私クシ小学生一年生だったしょうか。
年の瀬も差し迫ったある日、
母の買い物に付き合って百貨店におりました。
すると一階の会場で催しがあるとのアナウンス。
母に強引に手をひかれて会場に向かうと、
足の踏み場もないほどの黒山の人だかり。
その黒山の間からスポットライトを浴び現れたのは、
それまで見た事もない見目麗しき異星人!
児島明子さまのご登場でございます。
児島明子さま…今のお若い方はご存知ないでしょうが、
1959年度ミスユニバース一位のお方でございます。
森理世さんの大先輩にあたる方で、
世界一のプロポーションと美しさを兼ねた世界一の女性でありました。
八頭身といえば児島明子さま。
児島明子さまといえば八頭身。
八頭身の代名詞のようなお方で、
居並ぶ欧米列挙の美女達を蹴落として世界一の座を勝ち取ったお方でございます。
当時の日本は鬼の首を取ったような勢いで、
上へ下への大騒ぎでございました。
真っ赤な振り袖の上からミスコン襷をかけたお姿は尋常ならざるお美しさ。
周りのずんどうニッポンジンや我が母とは月とスッボン。
はきだめに鶴。
まさに異性人。
その異性人に向かって母はこう呟いたのを、
今でもはっきり覚えております…
「ひゃ〜、ちっちゃい顔やこと!」
…以来約半世紀、
小顔は美女の絶対条件であると私クシは信じておりました。
私クシに限らず、世の日本人皆そう信じ込まされました。
児島明子さまが世界一の座を勝ち取って以来、
古代モンゴルより連緬と受け継がれてきた
我々日本人のずんどう体型とデカ顔は見事に覆され、
小顔でなければ美女ではない、となってしまったのです。
以来、世のデカ顔に悩むオンナ達は雑誌やメディアに煽られ、
マッサージで顔を絞ったり、髪の毛で覆ったり、
シェーディングシャドウで輪郭をぼかしたりと
懸命なる努力を強いられてきたのです。
現代ではオトコも同じ。
イケメンオトコの条件の一つに小顔が要求される時代となってまいりました。
オトコもオンナも猫も杓子も小顔ブーム。
小顔でなければ悪。
デカ顔は罪であるかのような言われかたの昨今でございます。
確かに、少々背がコンパクトでも、
顔さえ小さければバランスが取れてそれなりに洋服も似合います。
小顔の方がデカ顔よりは可愛いげもありそう。
しかし、それがどうしたっていうのでございましょう!
少々顔が小さくたって欧米人の3D小顔には太刀打ちできません。
洋服が似合ったところで欧米人に比べりゃ、これまた月とスッポン
狭い島国の中だけで競ってもたかが知れたもの。
小顔は可愛いげがあるかもしれませんが、
可愛いげは憐れさと表裏一体。
グレートデンよりチワワの方が憐れでございます。
可愛いげなんてその程度なものであります。
最近、私クシある事に気付きはじめました。
私クシの周辺の人達ににデカ顔がやけに多いのでございます。
類は類を呼ぶわけではないのでしょうが、
信頼する人達は決まって顔がデカめ。
特に顔がデカい人を選んでいるわけではありません。
信頼できる人が皆揃いに揃ってデカいのです。
この事象はただの偶然だけではなさそう。
小顔の方々に言いがかりをつけるよう恐縮でございますが、
デカ顔の方が立身出世の率が高そうなのは、
以前のエッセイ「デカ礼讚」でも述べた如く。
それともう一つ、性格的にも違いがありそう。
私クシの苦手な性格というのがあります。
せっかち、姑息、イラチ、ケチ、貧乏クサイ、肝っ玉が小さい…
これらの気質はとても苦手。
私クシ自身の性格は棚上げして、
これら気質が身近の人から垣間見えるとハイサヨナラでございます。
男女問わず
「おおらか」さや「ゆったり」さが、お友達の絶対条件であります。
私クシの周りの大好きなお仲間は、
みんなこの気質をお持ちでございます。
となると、デカ顔の人のほうが、
この「ゆったり・おおらか」の気質を備えていそう。
人相学的にはどうかわかりませんが、
私クシの人生経験データではどうもその確率が高いのは事実であります。
仕事でメイクする時も全く同じ。
モデルさんや女優さんでもデカ顔の方達のほうが、
ゆったり・おおらかで何事にも泰然自若となさっています。
逆に小顔の方達は少々神経質で何事にも過敏に反応し…
と判断するのは早計でございましょうか。
そして、何よりも
オツムお味噌の容積にダントツの差がありそう。
もちろんデカくてもカラカラと音がしそうなよりも、
小さく密度の濃いほうが優秀でございましょうが。
いずれにせよ、デカ顔の人のそばにいると、
こちらまで気持ちがゆったりいたします。
児島明子様以来の日本人の小顔願望にも、
そろそろ終止符を打ってはいかがでございましょうか。
投稿者 tadashi : 10:13 | コメント (0) | トラックバック
2008年08月29日
オスの旅路

以前に比べ、最近はあまり外国への旅は行かなくなってきました。
もちろん出張は相変わらずですが、
プライベートな外国旅行となるとうんと数少なくなりました。
10年ほど前までは年に一度はコンサートや美術館巡りで、
長い時には一ヶ月近くはヨーロッパに滞在していたのですが、
最近は数年に一度の頻度。
しかも一週間以内の短期間集中型となってます。
旅の目的の一つは非日常を味わえることです。
同じオペラや美術を鑑賞するにしても、
超日常的な自宅から電車に乗って出かけるよりは、
24時間ヨーロッパの風景にかこまれ、
周囲も外国人だらけの方がほうが、
興奮度合いも余韻も増して数倍の非日常を味わえます。
いくらハウステンボスが頑張っても、あくまで西洋風。
風(フウ)がつく以上、正真正銘本物にはなり得ません。
つまみ食い程度の非日常でございます。
タイマイはたいて、長時間の飛行機に耐えても、
その徹頭徹尾の非日常性を味わいたく旅に出るのです。
外国への旅とは、私クシにとっては非日常が日常化になる時空なのです…あくまで錯覚ですが。
それと同時にもう一つ大事なこと。
旅とは帰る場所が確保されている事を、
改めて認識できる機会でもあるのです。
たとえ、素晴らしい自然に出会ったり、
豪華ホテルに滞在して「帰りたくない〜!」と叫んでも、それはウソ。
帰れる場所が確実にあるからこそ「帰りたくない〜!」と叫べるのです。
誰も本気で帰りたくないなんて考えてません。
叫んで自分で高ぶりを盛り上げているだけのこと。
外国で酔いしれているその頭の隅では、
必ず日本の生活や自分自身の心の中を冷静に見つめているはず。
たとえ不満が残る日常であっても、
確実に日常が存在しているからこそ、
非日常(旅)に酔いしれることが可能なのです。
旅とは、出発と同時に必ずや帰還する宿命にあります。
帰れる保証があるからこそ元気よく出発できるのです。
帰る場所がなければ永住、もしくは放蕩です。
最近私クシの旅の頻度がめっきり減ったのは、
どうせ帰還するなら出発するのも面倒という怠惰ぐせか…
あるいは日常の中での非日常の占める割合が増したということなのか…。
そういえば益々日常のチャラチャラ度が増しているようでございます。
さて、コロッと話が変わって、オトコの浮気も旅に似ているかもしれません。
別に本命相手に不満があるわけでもありません。
むしろ逆で安心もすれば感謝もしている。だからこそ、浮気をするのです。
安心、安全、安定、それらが日常になるのをオトコは怖れているのです。
日常を確認したいがために浮気をする。
浮気することによって自分の心の奥底や日常生活を見つめているのです。
そして、オトコは必ずや帰還する宿命を知っています。
出会った瞬間、別れがあるのを熟知しているのです。
オトコの浮気は生理…とも言いますが、それだけではありません。
旅と同じく、安定した日常を認識できる機会でもあるのでございます…
ナァ〜んて、相当良識ある賢いオトコだけのお話!
ほとんどのオトコなんてナ〜ンにも考えてやしません。
本能、本能!
オスの浮気は本能でございます。
まして石田純一サマの仰るような文化なんて高尚なもんじゃございません。
アホなオトコは放蕩が大好きです。
日常を確実なものにできていないアホなオトコほど放蕩の旅に出るのが大好きです。
人間のオスも、犬も猫も猿のオスも一緒!
餌さえあれば、必ずや帰ってきます。
どうせメスに食い散らかされて、
行くとこなんてないんでございますから。
そして傷ついたオスほど可愛いものはありません。
放蕩するオスほど母性をくすぐるのですからタチが悪うございます。
それと、自分探しの旅に出たどこかの元サッカー選手が言ってましたが、
これは<>自意識過剰のナル放蕩です。
こういうオトコは関わらない方が無難。ほっときましょう。
投稿者 tadashi : 10:01 | コメント (0) | トラックバック
2008年07月25日
アート眉のオンナ達

メイクに関する質問も年代別によって異なります。
20歳代は、いかに可愛く目を大きくするか、そして
大きくなった目力メイクをいかに長持ちさせるか。
いわゆるモテ顔アイメイク。
それが至上問題。
ですので、アイライン、マスカラに関する質問が圧倒的です。
一方、40歳代以降でダントツに多いのが眉。
自分に合う眉型を教えてほしい。そして描き方を教えてほしい、
という内容が一番多いのです。
4.50歳代の人達が最初にメイクを覚えたのが20年程前。
つまり1980年代です。
時代はバブルの真っ只中。
男女問わず肩パットをいからせ、
そこどけそこどけワタシが通るの戦闘ファッション。
向かう所敵なしで、この世のバブルを謳歌してました。
その頃のメイクは、アイシャドーはピンクやパープル系で、
リップはショッキングピンクと目立てばヨシの極彩色メイク。
チークも縦にシャープに骨格を強調するストロング系。
で、眉といえば…極太!
しかも綺麗に整理整頓された太さではなく、野放し状態のゲジゲジ眉。
強いオンナは眉も強い…が80年代の主流でありました。
当時の眉メイクは生えっぱしの眉毛の隙間をチョイチョイと埋め、
眉尻をひと筆たす程度でよかったのです。
お手入れらしいお手入れをせずとも良かったのです。
適当に(適度ではありません)太けりゃそれでナンボの
バブル眉でありました。
なので…この時代にメイクを始めた40歳代以降のマダムは、
眉メイクが今もって下手クソ。
どんな眉が似合うか、どう形を整えればよいのか、
どんな道具を使えばよいのか皆目検討がつかないのです。
90年代になって、突然細型シャープ眉が出現してきても、
流行について行けず時代に取り残されてしまったのです。
しかるに、いまだに4.50歳代は眉に関する質問が圧倒的です。
それに輪をかけ彼女達の年代独特の性癖があります。
邪魔くさい…
今、女盛りが過ぎて、ホルモンが安定しない時期なのか、
あるいは夫や子育てから解放され、急に緊張感がなくなったせいか、
自分自身について邪魔くさいなる時期なのです。
邪魔くさいけれど綺麗になりたい。
綺麗になりたいけれど邪魔くさい。
この矛盾する切なる願望を叶えるがために、
彼女達はとんでもないある行動に出ます。
アート眉!
アートと言っても芸術性とは何の関係もない眉です。
タトゥー…早い話が刺青。
刺青というと特殊職業のお兄様方を想像するのか、
芸術とは何の根拠もない、しらじらしいネーミングをつけました。
なるほど刺青眉は便利そう。
毎朝、眉と格闘しなくても左右対称に眉がそこに存在してます。
夏の汗でも取れません。
前髪が触れても取れません。
スイミングスクールで泳いでも眉だけは不気味なほど健在。
形はきれいワ、左右対称やワ、取れないワ、
朝もゆっくりできるワ、と何拍子も揃って最高!
いいことづくめで申し分なし!
しかし、です…
肝心な事を置き去りにしているのです。
それは、アート眉は他人によって描かれたという事実。
自分自身で考え抜かれた眉ではなく、本人の人生とは何の関わりも持たない、技術だけを持った赤の他人、つまりエステシャンに委ねた眉です。
しかも、半永久の消えることのない眉。
いいのでしょうかねぇ、こんなことで。
そもそもメイクなんて自分自身で悪戦苦闘して悩むもの。
たとえ、私達プロがメイクしても、
それはあくまで一つのアイデアであって、
一生涯の顔を決定するものではありません。
カッコよく若返り美人になっても、お風呂に入ればハイおしまい。
翌朝には元の顔にきちんと戻っています。
しかし、アート眉はそうはいきません。
先ほども申しましたように、
半永久的にお付き合いしなければならないのです。
それに、刺青で描かれた眉は何とも不自然な雰囲気を醸しだしています。
もともと左右アンバランスな眉筋肉を無視して、
強引に正対称な眉を刻印するわけですから、かえって顔がチグハグ。
しかも、ぼかしたグラデーションもクソない極めてペッタンとした平面眉。
その異様さは10メートル離れた所からでも識別できます。
眉だけが別人格が乗り移ったようで、とても不気味なのです。
眉なんて毎日違って当たり前。
自分の眉の正しいあり方なんて分からなくっていいのです。
メイクなんて自分の顔と格闘し一生涯悩むもんです。
アート眉を施すことで他人に委託してしまった悲劇!
委ねや依存は我々生きる物の専売特許ですが、
眉ぐらいは他人に任せず自分自身で闘って頂きたい。
依存心の強すぎるオンナはアート眉を好むのです。
誤解を恐れず申すなら…
私クシ、アート眉のオンナを信用しません…でございます。
投稿者 tadashi : 14:08 | コメント (0) | トラックバック
2008年06月18日
ピンクリップの正しい選び方

最近、薄い色のリップカラーが流行っているようですけど、
ワタシの場合顔色が悪く見えて似合わないんですが…
なんて言う質問をよく受けます。
ワタシの場合でなくったって、
薄いリップは誰だって顔色が悪く見えます。
唇の色が薄くなるってことは血圧低下の典型的症状。
いわゆる貧血顔。
ですから、薄い色のリップを塗る場合は
他の部分で血圧を上げればなりません。
それは頬の色。
チークカラーが決め手となります。
頬が健康色でしかるべき位置にあれば、
唇が少々貧血色であっても頬で血圧を上げてくれるので
元気顔となり、口元が薄色でもほとんどの方は似合いになります。
なので、薄色リップ上手はチーク上手でもあるのです。
さて問題はそのリップの色目。
同じ薄い貧血色でもピンク系かオレンジ系かパープル系か、
あるいはオークル系か…
これも答えは簡単。
チークの色によります。
チークと同系色にすればよろしい。
チークがピンク系ならリップもピンク系。
オレンジ系ならリップもオレンジ系。
あいまい色ならリップもあいまい色にすれば、まあ間違いなし。
つまり、顔色を一つにまとめてしまうのが、王道の正統派メイク。
素顔の肌色段階で頬がオレンジで唇がピンクの人はいないからです。
基本的に人間の顔の赤みは同系色です。
それにしても、リップカラーはいつの時代においても
ピンク系がダントツに人気があります。
男性からの支持も圧倒的で、
特にパール入りピンクの人気は永遠不滅で
モテ顔必須アイテムでもあります。
ただ、ピンク系のリップ選びは意外と難しいのです。
ピンクとひと口に言ってもオレンジ寄りのサーモンピンク、
青色がほんの少し混ざったパープルピンク、
あるいは純正桃色に純白がほんのり混じるベビーピンク…と多種多様。
可愛いピンクもあれば官能的で大人ピンクもあります。
自分の顔色に合うピンク系リップを探しだすのは、
かなりの美的センスが問われます。
なぜならヘアカラーやファンデーション、
その時の服の色等々のバランスもあり、
ひとつ間違えるとかなりチープでお下品な
ピンクオンナの印象を与えてしまいがち。
(オトコはこのチープさがお好きなようですが…)
ものの本によると実は唇は、
人類の進化過程の段階で口内の粘膜が体外に露出したとのことらしい。
物を口に入れる時、その食物の触感や温度を
あらかじめ事前に予期するために発達したのでしょう。
つまり、唇の色は唇の厚い表皮を透して見える口内の色ということになります。
ならば、もともとの唇の正しい色は口内の色ということになります。
下唇を指でつまんで、ぐいと下に押し下げてみてください。
実に美しい口裏のピンク色が表れます。
サーモン系、パープル系、ベビー系が混ざって
渾然とした訳のわからぬ美しいピンク色。
これが貴方の正しいピンク色。
唇本来の色であります。
ピンクリップの選び方で迷えば、唇の裏側と全く同じ明度、彩度、
そして同じ色度のピンクを探しだして塗ってみてください。
つまり、唇裏と全く同じ色にしてしまうのです。
間違いなしの貴方だけのピンクが出来上がり!
間違いなくパ〜〜っと顔が明るくなり、高揚感の高まる顔となります!
これが正真正銘、正しいピンクリップの選び方でございます。
但し…正しいからと言って好きな色とは限らないとこがメイクの奥深いところ。
特に自己否定型メイクをする人—自分の顔かたちはもちろん、
自分の肌色も嫌う人—は、この正しいピンク色を絶対好みません。
自立心の強いオンナほどこの傾向有り。
そういう方はオレンジ系、ヌード系、あるい燃える赤色をお塗りくださいませ。
でも、自分の正しいピンクを受け入れる事も大切。
自分自身を受け入れる事でもあります。
一度お試しあれ!
あぁ、メイクは奥深い!
投稿者 tadashi : 13:41 | コメント (0) | トラックバック
2008年05月30日
オスと男と種馬と

オトコとオンナの関係はまことに難しゅうございます。
長年、恋愛期間中はあんなに仲良しだった二人が、
結婚したとたんに価値観の相違とかで即離婚。
逆にお付き合いの時はケンカばかりのヒヤヒヤの二人が、
結婚生活になると夫婦円満で死ぬまでオシドリ関係が続いたり。
不思議なのはお見合い結婚で、人生の価値観もお互いの性格も未知のまま結婚して、一生幸福な家庭を築きあげている夫婦もいます。
相性なんて、どういう法則によって成り立っているのか、
さっぱり分からないのでございます。
ところで、先日テレビのワイドショーを見ていると、
興味深いアンケートデータがありました。
オトコ側への質問で、
1日だけ恋人にしてみたい女性タレントは誰か?
その栄えある第1位が、なんと沢尻エリカ様。
意外と思われるでしょうが、質問の中に1日だけ…とあるのがミソ。
1日だけの恋人というのは、終日デートで、お食事、お酒、楽しい会話の前菜に始まって、メインディッシュのお床入りまでのフルコース。
実はオトコは、このお床入りがお目当てなのは明らかであります。
つまり、早い話がこの質問、
1回だけ寝てみたい女性タレントは誰か…でもあるのです。
あの、不遜な態度も、ベツに〜のシラケたお返事も、
そして日替わり派手メイクもお床の中では、
小憎たらしくもお床の中では官能的な可愛さに見えるかもしれません。
あるいはその女王然たる振る舞いを床の中でギャフンと言わせてみたいのがオトコの性のメンツでしょうか。
でも、やはり2日以上のデイトとなると、やはりアノテはうっとうしい…。
数日以上の恋人にするなら、人生を楽しくしてくれそうなタレントがいいでしょうし、まして共同生活を強いられる結婚なんてまっぴらご免。
結婚するには、オトコのポジションを優位にできる(ウソでもいいのです)能力、そして何があってもオトコをトコトン追い詰めない寛容さが必要なのです。
彼女にはそれらが根本的欠けていると思われているのです。
つまり、世のオトコ達は
お床入り用と恋人用、
そして結婚用のオンナを微妙に嗅ぎ分け、
きちんと分類仕分けしているのです。
その証拠に、絶対に結婚したくない女性タレントの、
栄えある第1位もこれまた沢尻エリカ様!
(…あたり前と言えばあたり前。)
オンナに同様の質問をしてみると面白いかもしれません。
1日だけ恋人にしてみたい男性タレントは誰か?
例えば仮にキムタクだったとしましょう。
恋人=お床入り、恋人=結婚となり、
みんなイコールで一緒クタにしてしまうのです。
お床入りの最中、結婚生活も頭によぎり、
キムタクの優秀なDNAまで
ちゃっかり頂きたいと願ってしまうのは
オンナのサガでございましょう。
有能な種馬の遺伝子をゲットして子孫繁栄したいのは、
オンナの本能として理解できます。
しかし、ここをきちんと仕分けしなくてはなりません。
お床入り用オス、恋人用男、結婚用種馬。
これらは全く別の目的で、
用途別にオトコを仕分ける冷静な判断力
がオンナに求められるのでございます。
日本で最もセクシーなオトコと云われるキムタクも、
この3つを網羅できてるとは限りません。
ところで、お見合い結婚や政略結婚が意外とうまく行くのはこのせいで、目的はあくまでも子孫繁栄のための共同生活。
お床入りの行為も子孫繁栄が目的であって、
快楽プレイが目当てではないのですから極めてシンプル。
ですから、床入りの相性が少々悪かろうが、
性格の不一致で亀裂が入ろうが、
目的が明確なだけに結婚共同生活はゆるぎがないわけです。
そして、離婚の問題。
恋愛結婚なら自分たちが惚れたはれたで選んだ相手ですから、己の責任において離婚も容易。
しかし、お見合い結婚は運命あるいは神様が引き合わせてくれたお相手!
なので離婚も運命や神様に背くようで、
ちょっとやそっとで別れるというわけにもいかず…というのはあくまで建て前で、
お互いの相性についてもあまり真剣に考えないのかもしれません。
なにせ、もともと恋愛感情なんてなかったのですから。
なので時代錯誤と思われるもしれませんが、お見合い結婚はオススメします。
要は、お床上手は体をトキメかすオス。
恋愛は乙女心をトキメかす男。
結婚は子孫繁栄と人生をトキメかす種馬。
オンナはそれらをきちんと識別すべし。
この3つを同時に満足させるオトコなんてこの世に存在しないと認識すべし。
床上手なオトコが乙女心や人生をトキメかせてくれるなんて錯覚に過ぎないのです。
ちなみに、お床用オスは体育会系、恋愛用男は王子系、結婚用種馬は文化系をオススメします。
それともう一つ、オトコ側自身のこの認識度も大事。
自分はお床向きか恋愛向きか、あるいは結婚向きか…?
たいていのオトコはこの3つを網羅できていると自負しています。
しかし、それは危険な思い過ごし。
オトコの愚かさでございます。
自分自身の得意分野を認識していないと己の人生はおろか、
オンナの人生も破滅させてしまいます。
有能なオスは有能な種馬とは限らず、オンナのメスとしてのプライドを傷つけます。
そして、その火の粉は、必ずや自分に降りかかってくるのでございます。
お〜コワッ!
投稿者 tadashi : 13:47 | コメント (1) | トラックバック
2008年04月11日
欧米人に勝てるか

数年前、私クシが出演したの或メイクアップイベントでの事。
ひと通りのメイクショーが終わった後、最後はお決まりの質問コーナー。
いつもはお客様からの質問なのですが、
その日は500人規模のお客様だったので、
混乱を招かないように、まずは主催者側の女性司会者からの質問。
「あの〜海外に行って、フィフスアヴェニューやサントノーレとか歩いていると、
外国の方々がすごくカッコいいでしょ。
なのに日本人はとても地味で太刀打ちできないでしょ。
パーティーとかになると、もう惨め…これって何とかならないんでしょうか?」
んっ、どえらい質問です。
日本人にとって、触れてはならない問題。
特にこういった軽いノリのメイクイベントにはタブー。
なぜなら、あまりに大きな問題提議であって、
どちらかというとシンポジウム向き。
そのタブーに真っ正面から質問したこの司会者の女性、
本業は執筆家で、世界中を飛び回っているなかなかのキャリアウーマン。
頭脳明晰、容姿端麗、ファッションセンスも良く長い黒髪をたなびかせて闊歩する姿は、ミナミの繁華街においてはかなり目立つほう。
にもかかわらず、パリジェンヌやニューヨーカーに混じった時の
ウィンドウに映る己れの姿を見ると、あまりの地味さ、
影の薄さにがく然とするのだそうです。
そこで、先のような質問となったであります。
ハイ、とてもよく分かります。
私クシなんぞもヨーロッパでの音楽祭やオペラ、
特に初日やガラの日に当たると、それはえらい事です。
ご婦人方は豊かなデコルテをしっかり開け、
長い裾を引きずってもバランスのとれたボディ!
迫力あるイブニング姿です。
殿方のタキシード姿はみんな
T・クルーズやR・クロウのようで、
正真正銘の本物チョイワル。
まさに欧米列強!
そんな中にふやけた温泉卵みたいな顔で短足胴長、
かろうじて170センチの東洋人がロビーでウロウロしても、
摩天楼の下でチワワがよたついているようで情けない限りです。
太刀打ちできるわけがありません。
で、先ほどのイベントの質問、私クシが答えたのはこう、
「そもそも、比べようとするのがおかしいんです。
比べた時点で我々の負け。日本人は日本人らしくしてればいいです。」
なんと模範的な解答でございましょう。
分かったような分からないような、キツネにつままれたようなお答え。
イベントにおいて、こういった難題をぶつけられた時は
禅問答のような答えではぐらかすに限ります。
とっさの質問に我ながらも上出来じゃわいと悦に入っておりました。
しかし、ホントにそうなの?
それで答えになってるの?
何が勝って何が負けてるの?
日本人らしくて、
いったいどういう事?
と、悦に入った模範的解答に自問し、
その夜は深く考え込んでしまいました。
前述したように外国の地における日本人の冴えない姿は、触れてはならない問題。
こと我が民族の美醜にかかわる問題。
それは解決不能と誰しもが察しているからではないでしょうか。
しかし、あえてタブーに踏み込みます。
結論を言うなら
洋服は西洋人を美しく見せるための衣服であって
どんなにがんばっても…!
我々には似合わないのです。
もともと張った肩をより豊かに見せ、厚い胸板をよりセクシーに、
くびれたウェストをより絞りヒップを強調する。
長い手足をさらに優雅に見せる衣服であって、
平面的な身体に立体的な衣服を着せても辻褄があわず、
ますます地味に見えるだけ。
アチラは服も構築的なら身体も顔も構築的なのです。
つまり、洋服社会での見映えにおいて日本人はボロ負け。
そこで負けじと闘志まる出しの日本人は
外国のオペラハウスや高級レストランに行くと、
己の影の薄さを上っ面の華美さで勝負に及ぼうとし、
着なれない派手な一張羅で一世一代の晴れ姿を試みます。
しかし、もがけばもがくほど、あがけばあがくほど泥沼にはまり、
欧米人の嘲笑を買います。
こうなる事を恐れる日本人はいつもの奥の手を使うのです。
着物!
「やっぱり日本人は着物よねえ。
着物は外国では日本人が一番よく映えて綺麗に見えるわぁ。
外人にも評判いいもの」
ほんとにそう?
評判がいいって、外人から見れば単に物珍しいと思って見てるだけで、綺麗で似合ってるなんて思ってもいないじゃないの?と私クシは申し上げたい。
普段着なれない着物を付け焼き刃で急にはおっても薄汚いだけ。
芯地がほとんどない着物は、
ひとつ間違えるとダラッとなり
小汚ないく見えるのです。
着物は着付けにキャリアや人格、
センスが顕著に表れてしまう、世界でも類を見ない難しい衣類です。
それに、西洋人が紬や友禅の奥深い美しさを、
とうてい理解しているとは思えないのです。
(日本人でも理解できてません)
顔が大きく胴長短小、樽型日本人には着物が最も似合うと私クシも信じてました。
しかし、過去の日本人が理想とした体型は
必ずしもずんぐり樽型ではないのです。
浮世絵や大和絵の美人画を見ると頭が異常に小さい西洋型。
有名な上村松園に登場する気品ある少女達も手足が長い。
法隆寺の観音様も文楽人形、博多人形もデフォルメされているとはいえ、
そこにあるのは、我々日本人がひそかに理想としていたのは何を隠そう八頭身!
いやそれ以上の西洋人的体系!
最近では玉三郎や小雪の生身の人間が証明するように手足が長い方が、
袂模様も裾模様もバランスよく、はるかに美しく見えるのです。
着物であろうが、洋服であろうが、
衣類は頭が小さく、手足が長い方が
美しく見えるのです。
洋服もダメ、着物もダメ…
我々日本人は、いったいどうすればいいの…
西洋人には、どうしても太刀打ちできないのか…
ハイ、諦めてもらいましょう。
パリやニューヨークに行ってもウィンドウに映る己の姿に目をやらない事。
無い物ねだりはやめましょう。
救いようがないのです。
しかし、ちょっと視座を変えてみると心が安らぐかも知れません。
これまで述べたのは、あくまで背丈や手足、頭の大小の物理的サイズでの話。
タッパもあり足が長い方がかっこ良く見えるのは、洋の東西問わずあたり前の話。
しかし、はなやかで美しいかといえば、これは次元の違う話です。
人の持つはなやかさとは、
肉眼でとらえられる身体の大小、長短、
そして美醜とは全く異なる次元にあるのです。
身体の内から発する美しい生命のエネルギー。
つまり、オーラ。
オーラに勝るものは ありません。
たとえ背が高く、手足が長く、整った顔であってもオーラのない人は地味。
逆に小さな身体でのっぺり顔であってオーラのある人は目立ちます。
人種の違い、そして衣類の華美とは関係ないところでオーラは存在しているのです。
華より花!
では、花のあるオーラはどのようにして身につけるか…
これは今日や明日では身につけれる簡単なものではありません。
私クシなりの考えがあります。が、あまりに長くなるのでまたそのうちに…
とにもかくにも、チワワでもオーラを纏えば摩天楼より
花やかな存在となると信じております。
生命の持つ美しい力と智力…オーラを纏う民族でいましょう!
て、それができれば苦労はない。
やはりキツネにつままれたような解答でございます。
投稿者 tadashi : 15:06 | コメント (0) | トラックバック
2008年03月19日
オトコの不在

「ねぇー、最近きれいになってきたわね〜」
「そう〜お?」
「新しいカレでもできたんじゃない?」
「えっー、どうして分かるの〜?すっごい!」
「やっぱりねー、だって急ににきれいになってきたんだもん!」
「きゃ〜っ」
よく耳にするオンナ同士の他愛ない会話であります。
恋をするとオンナはきれいになるのか…
はい、なります。
オンナは恋をすると、必ずきれいになるのです。
職業がら、周囲に女性は大勢います。
その中でもモデルはメイクをする関係上、最も近い距離にあります。
下地クリームやファンデーションを塗る時は直接肌に触れるのですから、
彼女達の心の動きは、文字通り手に取るように分かるのです。
一点を見つめる虚ろな眼差し。力の抜けた口角。
高揚感からくる、うっすらとした肌の赤み。
寡黙になるかと思えば、不意打ちにくる饒舌さ。
そして、常に携帯を握りしめ、受信メールを確認する頻度の多さ。
まあ、これだけ条件がそろってれば、ほぼアタリ。
恋をしているのは間違いなし。
きれいに見えてるのは、先のうつろな眼差し、
力の抜けた口角、肌の赤みのせいです。
早い話が、ボ〜として上の空。心ここに在らずのお顔。
この表情が、恋をしてるオンナをきれいに見せるのです。
オンナの表情の中でも最も優しげで、儚く無防備な状態です。
例えば、竹久夢ニの絵に登場するようなオンナ達。
彼女達の顔はもちろん、四肢に至るまで無防備。
ただいま完全に恋に陥っております、という顔と体つき。
しかし、そんなうつろな表情も、恋するオトコと会う時、
つまり、カレが目前に現れるとすべてが一変します。
視線はオトコ一点に注がれ、口角には意志が出はじめ、
突然、フツーの顔に引き戻されるのであります。
恋するオトコが傍らにいるよりは、不在な方が明らかにきれい。
オトコの不在がオンナをきれいに見せる…のでございます。
傍らにオトコがいない分、いいにつけ悪いにつけ妄想は好き放題、
勝手放題、やりたい放題にどんどん増殖します。
心の中に起こるフツフツとした恋心は暴走するとコントロール不能となります。
それらは幸福という言葉では単純に片付けられない複雑なもの。
嬉しい、楽しいという感情に、さらに不安感も伴うからたまりません。
妄想の中での甘美の吐息と不穏な息苦しさが同居する
妙なシチュエーションに自ら酔いしれ、
胸が押し潰されそうになるのです。
早い話が、恋に恋する乙女。
だから、遠距離恋愛、単身赴任、出張中は心が燃えます。
恋する乙女はオトコが不在な方が燃え上がるのです。
オトコはただの恋心の触媒であって、
対象物があろうがなかろうが関係なく乙女は恋に恋します。
〜話はそれますが、だからオンナは芝居が好き、映画が好き、芝居が好き、バレエが好き、冬ソナが好き、バーチャル世界に没入しやすいのです。〜
話は戻って、申しますが、
周囲に不思議な桃色のフェロモンまで撒き散らすのです。
さて、このオトコがいながら恋に恋するシチュエーションって、
よくよく考えるに結局は自分自身に恋してるに過ぎないのではないでしょうか。
恋する不安定な心にはまっていく自分自身がいとおしく、
可愛くって、あるいは可哀想で仕方ないのです。
哀れな自分が何よりいちばん可愛いい…
自分自身に恋してるからこそオンナはきれいになる。
そうでもしなけれゃオンナはきれいに生きられないのかも…。
とは、乙女オヤジの戯言としてお許しくださいませ。
さてさて一方、逆にオンナの不在が
オトコを格好良く見せるのかという疑問も起こります。
残念ながらそれはあり得ません。
基本的にオトコは現実の社会と対峙する生き物ですから、
妄想や虚構の世界に恋することはオンナほどはないのです。
恋に恋することはオトコはほとんど起こり得ません。
たとえあったとしても現実の社会の繁忙さで
重症に陥ることなくすぐリセットできます。
この男女の想いのギャップがオンナをさらに不安に掻き立てられ、
言い知れぬ不安な快感に陥るです。
オトコの不在は恋するオンナをきれいします。
でも、美しく輝いているかといえば、それは話は別。
きれいでも輝いているとは限りません。
オンナを美しく輝かせるには、
オトコの存在と恋を愛にまでアップグレードさせる覚悟と
忍耐が不可欠なのでございます。
つまり、
〈恋〉は自分への思い。
〈愛〉は相手への思い。
オトコ不在の恋するきれいさは、一過性の自己満足ってこと。
でもねぇ…ないよりマシ、恋の過ちはオンナを進化させます。
投稿者 tadashi : 10:03 | コメント (0) | トラックバック
2008年02月22日
紺の怖さ

私クシのクローゼット、ご覧になるとさぞやびっくり仰天なさるかと思います。
端から端まで、
紺、紺、紺…紺色ジャケットだけがハンガーにおさまって紺ズラリ。
紺一色の世界。
そして、タンスの中はといえば、
白のシャツのオンパレードで真っ白け。
白一色の世界。
ジャケットもシャツも異なるのはビミョーなデザイン違い、生地違い、
お値段違いで基本的には全く同じ風情。
よくもまぁ、ここまで紺と白ばかり買ったもんだと我ながら感心しております。
ところが、そんなに紺と白がお好き?と聞かれれば返答に窮します。
消去法でいくと、白と紺しか残らないというのが本音。
赤を着ると、もっとエンジン吹かして!、と強引に強精剤を飲まされているようで焦ってしまいます。
黄色も同じく、元気の押し売りで、無理やり作り笑顔をだしているようで却って疲れます。
ピンク系は見るぶんにはいいけれど、心に潜む乙女心を露呈しているようで気恥ずかしい色。
茶系はその落ち着きはらった甘さで癒され過ぎて、心も体もダラけます。
かといって黒は肌色が迫力負けして、非常に難しい別格の色。
というワケで紺と白が残ってしまった次第であります。
色ごときに私クシの心や生活リズムを支配されたくはないのです。
紺と白の組み合わせなら、
色にイニシアティブを取られる心配もなく自由な行動ができそう。
カラーリストのお姉さんにあれが似合う、
これが似合わないと言われても一切関係なし。
春夏秋冬、毎日、毎日紺ジャケに白シャツ。
冠婚葬祭も限りなく黒に近い濃紺のスーツに白シャツ。なんでもかんでも紺白。
これにはまってはや15年、
アホのひとつ覚えの紺白人生でございます。
厭きないの?と聞かれます。
はい、飽きません。
ところで、紺と白の組み合わといえば、制服がよく使うテであります。
制服フェチな私クシとしては紺白コンビの制服はたまりません。
ひと昔前のスチュワーデスのお姉さんや海軍のセーラー服のお兄さん、
パイロットのオジサマ、…皆様揃いに揃って清潔感があり
ストイックに見えてIQも高そう…。
心の中を最も見透かされにくく、
清潔でストイックな組み合わせが
紺と白なのでございます。
紺ジャケの袖口からほんの僅かのシャツの白を覗かせるだけで、
その人の手首はもちろん人格まで緊張感を漂わせ、
ストイックでしかも清廉潔白な人生を送ってるように見えるから不思議です。
私クシのような享楽主義で欺瞞的な人生観を持った人間は、
取り敢えず紺ジャケ白シャツでカモフラージュしていれば、
でそれなりに見えます。
ついでに、IQも多少はupしたようにも見え、アホさ加減もごまかせます。
この辺りが厭きない理由でありましょう。
話は戻りますが、
クローゼットの中のずらりと並んだ紺ジャケットはほとんど同じデザイン。
男物ジャケットなんであたりまえですが、襟があって、
3つボタンでポケットがある…デザイナーズブランドは絶対着ない主義ですから、
基本スタイルばかりの同じジャケットがズラリ並んでいます。
しかも全て紺。
と、なると異なるのはクオリティの差となります。
一口に紺と言ってもピンからキリまで。
ここがおもしろいところ。
ハンガーに掛けられてるのですから、見えるのは横一列に並んだ紺色の袖だけ。
にも拘わらずそのジャケットのクオリティの差は一目瞭然に分かってしまいます。
微妙な紺の染料の差、微妙な布地の差、
微妙な仕立て具合の差は袖の紺ひとつで全体の品質の差まで見渡せてしまい、
微妙どころではない大きな品質隔差となって表れるから怖いのです。
朝、その日の気分で選ぶ一着も、袖だけ見てほぼ一回でアタリ。
全く同じ条件のモトでは、物事の本質が却って明瞭に見えてきます。
これは人間が紺の制服を着たときの関係も同じ。
同じ紺色、同じデザインの制服を着せると
人間そのものの人格の差までもが露呈してしまうから紺の制服は恐ろしい。
これは黒や白の制服を着せるよりも顕著です。
糸ヘンに甘いと書いて紺。しかし決して甘く見てはなりません。
一見誰にでも似合う色に見られがちですが、一筋縄ではいかない色で、
着る人をバッサリと拒む色でもあるのです。
これを胆に命じて、私クシは紺を着るようにしておりますが…まだまだ…。
まあ、あと30年は紺修行を積み、
90歳過ぎれば、ヤケクソでピンク爺さんになってやろうかと思案中でございます。
投稿者 tadashi : 11:43 | コメント (0) | トラックバック
2008年01月31日
悩める食事の会話

忘年会に新年会、ディナー、披露宴、パーティー、宴会、お食事会…
なんと楽しそうな響きでございましょうか!と言いたいとこですが、
実は私クシこれらが大の苦手。
晴れがましい場所がイヤな訳ではありません。
むしろドンチャン宴会や業界パーティーはオスキで、
人と話したりするのも決してオキライなほうではございません。
時事評論から人の陰口、悪口、噂話に自虐ネタに至るまで話題は豊富なほう。
では、何が苦手なのかというと、
食べながら喋るという単純な行為が苦手なのでございます。
というか、口の中に物を入れた状態でお喋りができないのでございます。
これがお悩み。
幼い頃、親にうるさく言われたのが、
お箸の持ち方と静寂なる食事。
私クシに限らず、我が世代の人間は子供の頃からこの二つの事をうるさく言われたのです。
お箸の持ち方がわるいと祖母に手首をパシッと叩かれたもんです。
そして、ご飯を食べる時は、
お茶碗の底を見ながら静かに食べなさいっ、と。
つまり、テレビはおろか、よそ見厳禁、
食事中の私語も厳禁。
従って、幼い頃の我が家の夕食はテレビはつけず、音をたてず、
家族の会話もなく、ただひたすら食べ物を口に運んでいるだけの、
お通夜のよう食事風景でありました。
小学校の給食でも同じ。
規律うるさい私学に行ってたせいもあるでしょうが、
お昼ご飯の時のお喋りはご法度。
おまけに背中に定規を突っ込まれ姿勢正しく食べなさい、
と厳しくしつけられたもんでございます。
そんな昼ご飯なんて楽しくないじゃない、と思われるかもしれませんが、
これが決して窮屈とも思わず、
むしろ私クシにとっては快感でした。
昭和30年代の歴史に残る悪名高き学校給食…
雑巾臭い脱脂粉乳も発泡スチロールのようなコッペパンも、
静かに食べるとマズくは感じなかったから不思議なもんでございます。
要は楽しく会話しながらの食事なんて必要なし。
食べるという行為にひたすら集中し、
食物を与えてもらった神仏に感謝しがら食べましょう、
食事中の会話は不浄であり、お喋りは食事が終えてから思う存分どうぞ…
食べる時は食べ物に集中、喋る時は会話に集中、という訳です。
それが世の常識であり絶対的価値観であると
親からも学校からも、これでもかと叩き込まれたのであります。
ところが、どう…!
東京オリンピックあたりから事情が徐々にジワジワと変わりはじめました。
そして、西洋の文化や食事マナーが生活の中に浸透し出し、
70年代万博の頃になると、
『食事は会話を楽しみながらしましょー!』と、
なってしまったのです。
そりゃあ、ないでしょーよ!
そりゃあ、あんまりでしょーよ!
よそ見をしたら叱られ、ただひたすらお茶碗の底を見つめ、
親兄弟や友達と会話する事も許されず、
禅僧のような食し方をやっとのことで身につけた頃になって、
今までのはぜーんぶウソ、と言われるようなもんで、
これは文化大革命並みのショックさでございました。
雀百まで踊り忘れず、と申すがごとく幼い時に仕込まれた習慣は、
半世紀以上生き延びても、ちょっとやそっとで変更できるもんではございません。
食事中に喋れと言っても、何を喋ったらよいのやら。
食べる事に全神経を集中してたら他の事は考えられず、
会話なんてできようはずもございません。
だいいち、食べ物を口のどこの位置に定めて舌を動かし、
喋ればいいのでしょうか。
動物だって食べながら会話してるなんて見た事もございません。
当家の猫だって食べる時は必死。呼んでも振り向きも致しません。
食べる行為と喋る行為を同時にできる
世間の皆々様の器用な脳ミソと舌の構造を是非とも拝見しとうございます。
喋りながら食べる、食べながら喋る…そんな複雑な行為を、
エレガンスな食事マナーと呼べるのでしょうか?
私クシには理解の及ばぬところでございます。
然るに、複数の人との食事はいまだ苦手。
お食事会に誘われると、とても気分が憂鬱。
箸を手に持ったとたん、
急に黙りこくってもご機嫌ナナメでも疲れてるわけでもないので
ご心配には及びません。
食べ物に集中し、食べる幸福感を噛みしめているだけで、会話は上の空。
たとえ格好つけて喋っても、
トリュフやご飯ツブが口から飛び出すこと間違いナシ。
箸を置いたと瞬間に、急にチャラチャラと喋り出しますのでご安心くださいませ。
投稿者 tadashi : 11:06 | コメント (1) | トラックバック
2007年12月06日
オトコはなぜ化粧しないのか

よく聞かれる質問に、
どうして男性って化粧しないんですか?
あるいは、男性の化粧はどうするんですか?
…があります。
ここで、着目しなければならない点が一つ。
この質問をするのは、決まって女性側。
つまり、普段化粧をしている側からの質問なのです。
この質問、裏を返せばどうして女性は化粧をするのか、
あるいはこんな楽しい事をどうしてオトコはしないのか、でもあります。
我々の仕事では男性モデルやタレントにも必ずメイクをします。
だいたいは、目立つシミをコンシーラーで消して、肌色を少し整え、
ライトによる乱反射を抑えるためお粉をポンポン。
あとは必要ならば眉をチョンチョンと足すぐらい。
シンプルで単純なように思えますが意外と難しく、
要はメイクをしているのがバレないようにするのがポイント。
バレないように…
つまりはオトコはメイクをしてはならないという
不文律が洋の東西を問わず存在しているのです。
過去にはあるにはありました。
ロココの貴族達の夜の白塗り。
豪奢な服やヘアスタイルとバランスを取るために、
また薄暗く光るシャンデリアの下で自らの存在を、
まっ白の顔で誇示していたのです。
日本においては戦国時代に武士達が出陣前には
やはり白塗りをしていたという事実もあります。
美しい死に顔も武士道の身だしなみ。
しかし、これらは一部の特権階級独特の耽美的な発想で、
歴史的に見ても一般にはオトコは化粧は浸透したことがありませんでした。
オトコは何故に化粧をしないのか…
オンナは何故に化粧をするのか…
これらは、とても難しい問題で
メイクの仕事に携わっている私クシにもなかなか結論が出ません。
そこで考えてみます…。
オンナは華やかな存在でオトコは剛健で地味な存在。
一般社会ではそのような概念となっておりますますが、
果たしてそうなんでしょうか。
確かにオトコは紺か黒のスーツにネクタイ締めて
七三分けの髪型が一般サラリーマン。
一方オンナはスプレーで盛り上げたヘアにミニスカート、
ピンクのリップにピンクのネイルにパールやビーズ、ラインストーン、
そしてマスカラのてんこ盛り。これが一般的OL。
こうなるとどう見てもオンナの方が目立ち、
オトコに勝ち目はなし。
しかしです、それは人工的に装おった上っ面だけの話であって、
肉体的にはオトコの方が派手な存在です。
仮にです、仮に人間が生まれたままの状態で、つまり化粧は勿論、
服も着ずヘアカットも髭も剃らずに生活していたとしましょう。
ならば、オトコの方が肉体的には明らかに目立つ存在です。
体格も顔もデカく、髪の毛も体毛も豊富、
ちょうどオスのライオンのようであります。
動物界ではメスよりオスの方が派手だけど、
人間界は逆なんていわれてますけど、そんなのウソ。
生まれたままならやはりオトコの方が派手で、ライオンも猫や犬、
孔雀も鯨も鯉もカブトムシもみんなみんな同じ事でございます。
獲物を獲得し、敵を倒すには、強靭な筋肉とで大きな躰が必要、
威嚇するにはデカイ顔やたて髪が物を言わします。
動物界において、種を存続させ繁栄させるには、
そのようなオスの肉体が絶対不可欠であります。
そして、戦い生き残りができるオスは
そんな派手な肉体をメスに誇示しようとします。
当然、メスは子孫繁栄を願うわけですから、
力強い立派なオスのDNAを獲得しよう躍起になります。
なので、力強くデカく派手な肉体を持つオスはもてるのです。
人間界も全く同じ。
文化系より体育会系がもてるのは、このせい。
(但し、若い世代のみ。中年期以降は教養ある文化系がもてます。)
では、動物界のメスは何をしているかといえば、特別何もしてません。
自然に出るフェロモンを適当にまき散らしてるだけで、特別な誇示は何もしていません。
あくまで受け身。
これは、動物界だけに許されることであって、人間界ではこうはなりません。
知性ある人間のメスは、先ほど述べたように己れの地味な肉体を知っています。
優秀なオトコの遺伝子を獲得するには、
じっとして何も起こらず、取り残されるだけです。
ですので知性ある人間のオンナは地味な顔にメイクをして目鼻立ちを目立たせようとなり、
ファッションという手段で己れの肉体を誇示しようとします。
大奥やハーレムのオンナ達が華美を競ったのもこのためで、
その美容法やファッションは現代まで影響を及んでいます。
メイクはオンナのたしなみといわれますが、
そんなの上っ面のキレイごと。
優秀なオトコを獲得したいがための、肉体の誇示であります。
パール入りピンクのグロスで可愛くみせたいのは、オスへのアピール。
他人の迷惑顧みず、ラメてんこ盛りネイルを塗るのも
オスへのアピールと、そして自己愛。
まずは自分のことが可愛くて可愛くて仕方ない…と思わないと、誰が思う…!
自己愛の強いオンナは、オトコからいとおしく思われるのを
メスの本能で知っているのです。
〜地味な肉体を悟り、オスにもてようとする自己愛がオンナにメイクをさせる。〜
私クシは斯様に考えます。
若い世代はそれでいいのですが、ではオバサマ世代のメイクは何の為か?
〜オスにもてようとする〜の部分だけ削除するとおよろしい。
さて、話しをうんと戻して最初の質問です。
オトコはどうして化粧をしないのか?…です。
もうお分かりかと思います。
オトコにはすでに派手で目立つ肉体があり、己れの肉体をかさ上げしたり、
華美な装いをしてまでも誇示してようとする自己愛がオンナに比べ欠如しているのです。
上っ面の華美さで勝負するより、頭が良く、力があり、
仕事ができ、いっぱいお金を持って帰るオトコの方が
結局もてるというのをオトコ自身は悟っています。
オトコはメイクをしたって
何も楽しくありません。
大きなシミがあっても全く気になりません。
唇がくすんでても、ウソをついてまでピンクグロスを塗りたいとは思いません。
美しい肌だと思ってたオトコが、朝おきるとシーツにファンデーションがついてたら百年の恋も一瞬で吹っ飛ぶでしょ。
動物界のオスも人間界オトコも全く同じ。
違うのは、身をやつす知性があるかないかの違いだけで何の大差ございません。
社会を生き抜いていけ、家族を守る強靭な肉体と知力があればそれでヨシ!
化粧の力を借りずともオトコは充分もてるのであります。
これが、オトコが化粧をしない理由の現段階における私クシなりの結論でございます。
如何?…地味だからメイクしているといわれたオンナ諸君、御反論ありましょうか?
投稿者 tadashi : 09:57 | コメント (0) | トラックバック
2007年11月21日
オヤジの三種の神器

薔薇に囲まれ、ピンクの花柄トイレットペーパーを使用し、
フリルのパラソル大好きな乙女オヤジ…しかし戸籍上は普通のオヤジ。
所詮はただのオッサンでございます。
その証が私クシのオヤジの三種の神器。
どうしても手放せ無い、切っても切れない
3つのオヤジアイテムがございます。
それは、
床屋
ナイロンタオル
缶コーヒー
この3つだけはどうしても諦め切れません。
こんな仕事をしているので、さぞかし今どきでファッショナブルなヘアサロンで
カットをしているかとご想像かと思われますが、さにあらん。
家のお向かいの、いたってフツーの床屋さんに何十年も通っております。
オヤジさんと手伝いの奥さんの二人だけでやっている、
古典的風情の散髪屋さんであります。
美容院がなぜ嫌かと言うと理由は一つ…雰囲気がダルいから。
穴だらけの汚ない私服で、茶髪のシャギリまくったアホのホストみたいな美容師に「いらっしゃいませ〜今日いかがなさいますかァ〜〜」と貧乏臭い作り笑いで接客されると、
そのツラをハッタァしたくなるのでございます。
意味もなくハサミを振り回しながら、「何の仕事してるんですかァ〜?」なんて初対面で聞かれりすると、ほっといてくれ!黙って切りなさい!と叫びなくなります。
アホはアホらしくおとなしくしてればいいのでございます。
その点散髪屋さんはよろしゅうございます。今の通っている散髪屋さんは、
何十年も私クシの仕事すら聞いた事もございません。
その店での私クシのデータファイルは
向かいのマンションに住んでいる事と猫好き。
知ってるのはそれだけですから、会話も何十年もそれのみ。
あとは寡黙にシャキシャキとリズミカルにハサミを動かして刈り上げているのみ。
首筋にあたる快速金属触感が何より気持ちイイ〜のです。
髪の毛を切り刻んでいるという実感があり、
清涼感に向かってまっしぐらに突き進むような快感がたまりません。
この感触だけは、いくら頑張っても美容院は太刀打ちできません。
美容院は接客もカットもまことにダルい。
入浴のボディー洗いもダルいのは嫌いでございます。
乳液入りのハーブソープで泡をたっぷりたてて、
スポンジでソフトに洗う「乙女洗い」はダルくていやでございます。
昔ながらの洗浄力勝負の固形石鹸をたっぷりナイロンタオルにこすりつけ、
ゴシゴシ洗い。
多少赤くなるのは覚悟のうえ。
こうでもしないと一日の疲れがとれずシャッキといたしません。
ナイロンタオルの鋭利な感触がないと洗った気になれないのでございます。
(勿論、お顔だけはソフトに)
で、問題は缶コーヒー。
仕事を初める時、あるいはひと仕事終えてホッとした時、
手放せないのがこの缶コーヒー。
ドリップで煎れた香り高きカップコーヒーではございません、缶コーヒーが好きなのでございます。
シアトル系のストロー付きではございません、缶コーヒーでないと駄目でございます。
香りもなく、前頭葉を刺激するマズさ!
一日に二缶が限界でそれ以上飲むと吐き気をもようす下品な甘さとエグさ…!
それが、たまらなく好きでございます。
しかもそのマズさは缶入りでないと話になりません。
陶器カップでなく、ストローちゅうちゅうでもなく、
あの安っぽい金属の鋭利な感触が口唇に触れるからこそ魅惑倍増。
このマズさと感触はオンナ、コドモにはとうてい理解の及ばぬところ。
考えてみるに缶コーヒーのCMはすべて男向けに作られて、
まことにオス臭く汗臭い宣伝が多い。
缶パケージにしてもピンクの花柄やレース模様は皆無で、
黒色、茶色、金色、銀色がメインカラー。たとえ赤でも、くすんだ海老茶色。
コンビニに行くと、缶コーヒーが陳列しているその一画だけは
男子寮のような佇まいを呈してまことに男臭い。
しかも、そろいにそろって120円均一。
とても選択肢が狭く選び易いところも大変結構。
すべてにおいて下品で安っぽいところあるからこそ、
不思議と身体が奮い起ち、
やる気が出るのでございます。
このあたりがオトコにお気に召される所以。
陶器カップで煎れられた薫り高き美味しいコーヒーは癒されこそすれ、
身体に刺激がなくやる気が出ません。
たとえシアトル系が益々美味しくなろうとも、
容器やストローがプラスチックであるかぎり気分はダルい。
缶の安っぽい金属が口に触れるからこその命。
缶コーヒーは、コーヒーの分類に入れてはならないのです。
これは全くの別の飲み物。
戦いに挑むオトコの必須アイテム…戦闘体制甘味料とでも申しましょうか。
どんなに世の中が高級志向なろうが癒し系志向なろうが、
缶コーヒーだけは永久不滅でございます。
考えてみるに、私クシのオヤジ三種の神器に共通しているのが、
「鋭利感」。
床屋のハサミにしても、ナイロンタオルにしても、缶コーヒーにしても、
この鋭利な感触があります。
もともと、オスは戦うのがお好き。
他者より勝り、獲物やメスを捕らえ、領土を拡げて己の種の存続と繁栄を企む事。
それが、オトコ達の野望であり本性。
それには鋭利な武器という友が必要。槍や刀、甲冑、銃、戦闘機…
オトコ達はこれらが大好きであります。
戦争反対!と叫ぼうが、人命最優先!と唱えようが、
この殺人凶器をオトコ達はこよなく愛しております。
日本刀の研ぎ澄まされたエッジを見て
ムラムラと興奮するのはオトコぐらいなもんであります。
銃も刀も全く興味がない私クシでございますが、
これらの鋭利な物に触れると、我が体内に潜むオトコのDNAがメラメラ目覚め、
生きる覇気が出るのかもしれません。
普段はフリルや薔薇の花々、宝石に心は癒されていようとも、いざオトコの出陣はやはり鋭利な感触で奮い起ち。
所詮はただのオッサン。
この3つの神器なくしては生きていけない、我がオヤジのサガでございます。
投稿者 tadashi : 13:35 | コメント (0) | トラックバック
2007年10月23日
日傘オンナの栄光

秋の気配が日毎に深まってますが、
今年の夏も執念深い紫外線の下では、
UV完全武装オンナ隊をどっさり拝見いたしました。
日焼け止めクリームにサンバイザー付き黒帽子、
黒覆面に肘まである黒ロンググローブ、そして…憧れのレース日傘。
あぁ、何と勇ましい出で立ちでございましょう!
天敵の紫外線と果敢に闘う女戦士の如きでございます。
私クシも日傘を持ちたい!
あの優雅極まる他人迷惑な日傘を持ちたい!
羨ましゅうございます。
しかし、いくら乙女オヤジを自認してようが、
オヤジが日傘を持つ事は、現代ニッポンにおいて
後ろ指を差されるであろう事ぐらいは承知しております。
世間の後ろ指、世間の嘲笑が怖くって日傘は未だ持つ勇気がございません。
その思いが強過ぎるのか、テレビ番組「別人マダム」の屋外ロケでは
フリルてんこ盛りのおフランス製日傘を持っております。
が、これはあくまでもテレビ用。視聴率UP用。
世間の目を気にする度胸なしの私クシが、
普段そんな格好をして巷を歩いているわけがございません。
しかしです、オヤジだっていつ何どき出てくるか予測し難いシミを恐れており、
その発症は可能な限り遅らせたいと切に願っているのであります。
私クシは、日傘オンナを羨望の眼差しで眺めております。
ところで先日、興味深いNHKの番組を見ました。
日本語ペラペラの在日外国人達が、
日本人や日本の社会について奇異に見える事象を、
言いたい放題言いがかりをつける、日本人にとっては
自虐的ナルシズムの快感をくすぐられる番組です。
風鈴の音を聞いても涼しく感じないとか、
なぜ日本の街には自動販売機がやたら多いのか…とか、
褒めたり、こき落としたりと散々言い放った後、
ある若いフランス女性がご発言。
「日本人オンナの日傘ってとてもヘン!オカシイ!
世界中探しても日傘を差してる女はイナイ!
あんなのはヨーロッパでは前世紀の遺物。今、誰もイナイ!」
まわりの外国人達も「ソウソウ、カッコワリィー!」と。
へえ、そうかァ…そうだったんだ、とため息まじりに感心。
私クシここで2つの事実にやたら驚いたのでございます。
一つは、世界中のオンナはみんな日傘を差してると思ってなのに、
今は日本だけなんだァ…という事実。
そう言えば、夏にヨーロッパでもアメリカに行っても
日傘西洋オンナを見たことがございませんでした。
カリフォルニアの青い空の下でヒルトン姉妹がレース傘を
差したところを見た事ございません。
それどころかガンガンに強い日差の下でも、
おベンツの屋根全開で走ってらっしゃいます。
私クシ、目からウロコでございました。
日本の日傘は世界から見れば時代錯誤も甚だしかったのです。
これは衝撃の事実でございました。
そして、もう一つの衝撃。
紫外線を気にする日本のオンナの姿は外国人からみればカッコワルかったのです。
彼女達の言い分。
「なんで黒くなっちゃイケナイの?
なんでそんなにシミやソバカス気ニスルの?
日焼けはカッコイイジャナイ…もっと大事なコトアルッ!」
なるほどごもっともなご意見です。
シミよりもっと大事な問題は人生においては山積している筈。
自分の肌よりも守らならなければいけない事は世の中にいっぱいある筈。
美白、美肌至上主義の日本の日傘オンナは外国人から見れば滑稽で能天気なだけに映るのでしょう。
でもねぇ…と私クシは敢えて申し上げたい。
そもそも、我々東洋人の肌って何色だとお思いで?
黄色人種って言うぐらいだから当然に黄色!
と、考えている事がそもそもの間違いでございます。
いろんな人種のモデル達をメイクしてきましたが、
日本人の肌はぜんぜん黄色くありません。
白人の方達がちょっと日焼けした方がはるかに黄色ぽく見えます。
白人独特の僅かにピンクがかった肌色が紫外線を浴びる事により
オレンジ色がかった健康的な黄色に見えるのでしょう。
では、我々の肌は何色か?
くすみ色でございます。
残念ながら、ただくすんでいるだけでございます。
日本人の肌は表皮が厚いためか、肌色の中に僅かながら緑の色素が潜んでいるのです。
実は、その緑色がくすみの原因。
もともとくすんでる肌が日焼けすると、当然ながらくすみがエスカレートします。
ひと昔前のガングロくらい真っ黒なら、
くすみも黄色も言ってられない迫力がありますが、
日本人の中途半端な日焼けはドス黒く淀んだ肌色で、
かえって不健康に見えるだけでございます。
日焼けは健康的でカッコイイというのは、
そんな事情を露も知らぬ西洋白人のご発想。
いにしえの平安の昔から、御簾の中から浮かぶ白い肌は
高貴で奥ゆかしく女らしさの象徴とされてきました。
それ以来一千年以上の長きにわたり、
日焼けオンナが美しいなんていう美意識は日本文化にはないのです。
戦後の日焼けブームは西洋かぶれの一時的な気紛れでございます。
オレンジ色に輝く日焼けした白人オンナと、
ドス黒くくすむ日焼けした日本人オンナとでは、存在自体が月とスッポン。
根本的に日本人の肌には日焼けは向いていないのです。
そして、紫外線から守られた白く陶器のような肌…
そんなシミひとつなく透き通り壊れてしまいそうな美白オンナを、
日本男子は確かにお好きなのです。
緑の色素を含んだドス黒いオンナはオトコにもてないのを
日傘オンナは本能的によーく承知しているのです。
どんなに外国人から蔑まされようが、
どんな言い掛かりをつけられようが、日傘でお肌をお守りくださいませ。
もてる事はオンナとしては最重要課題。
美肌美白至上主義で何が悪い。
滑稽でカッコ悪くて何が悪い。
この少子化の世の中、人類存続のためには、実にまっとうな考えでございます。
オンナとして最後に栄光を勝ち取るのは日傘オンナでなのでございます。
そして、そして、世の乙女オヤジ達も日傘を持とうではありませか!
オヤジだってシミがあるより、
無い方が良いのに決まっております!美白オヤジで何が悪い!
投稿者 tadashi : 09:46 | コメント (1) | トラックバック
2007年09月21日
心のグラデーション

教えられるよりも、教える方が、より学ぶ事が多いようでございます。
プロを育成する講習をするようになってから十数年になりますが、
様々な事を生徒達より教わったり、気付かされたりしました。
なーんて言えば、きれいごとで体裁を取り繕っているように
聞こえるかもしれませんが、
ホントにそうです。
自分では何の努力もせずとも簡単にできるテクニックも、
実は生徒達にとってはかなり至難の技であったり、
逆に何年も費やして得たテクニックが、
いとも容易くやってのけるツワモノ生徒がいたりと…
そんな日には落ち込んで眠れず自暴自棄に陥ります。
そのなかでも、線とグラデーションの関係には考えさせられました。
メイクにおいて描くという行為には、
たった2つのテクニックしかありません。
それは、線を明晰に描くことと、
グラデーションを柔らかく施すこと。
基本的にはこの2つのテクニックしかないのです。
例えば、線テクはリップラインや眉尻、
そしてアイライン等。
最近のリップグロスてんこ盛りなどは線が明確ではないですが、
濃いリップカラーとなると、やはり線が明晰な方が
清潔感があってきれいです。
そして、暗い部分から明るい部分に向かって
徐々にボケて消えて行くのがグラデーション。
アイシャドーやチークカラー、
そして柔らかな眉頭がそれにあたります。
この2つのテクの複雑な組み合わせによって、
同じ色を使っても顔の印象は随分変わります。
グラデーションの場合、
明暗の幅が広くなればなるほど、情感が深く、
さらに広くなると退廃色の濃い印象になります。
線がシャープになればなるほど、
緊張感のある顔となり、時には挑戦的、
攻撃的な雰囲気までなります。
さて、その線とグラデーションのテク、
生徒達の実習を見ていると、どんなに優秀で器用でも、
最初からこの2つともが上手い生徒がいないのです。
必ずどちらかが上手でどちらかが苦手。
つまり、線をきちんと描ける生徒は柔らかく煙り立つような
グラデーションが苦手。
グラデーションが上手な生徒は切れるような線が描けず四苦八苦。
線派とグラデーション派にはっきりと二分割されてしまうのです。
この2つのテクをそれなりに習得するにはかなりの努力が必要。
努力のかいあって会得したとしても、
必ずどちらかが微妙に不得手で、この問題は一生つきまといます。
生まれながらに線とグラデーションの2つが超絶的までに美しいのは、
ダ・ビンチぐらいではないでしょうか…それでも彼は最期は
グラデーションの人でした。
さて、自分の技量を棚上げしながらも生徒達に指導していると
面白い事実を発見しました。
それは、線派とグラデーション派はただテクだけの問題ではなく、
心の問題でもあると。
テクと心はシンクロしているという事実です。
まあ、当たり前と言えば当たり前なんですが、
これが実に興味深い。
線が苦手な生徒は、心が絶えず揺れ動いて、
焦り、動揺が見え隠れしてヨレヨレの線となってしまいます。
しかし、そんな生徒でもグラデーションを描かせば、
何も教えなくとも幅広いボカシができ、かなり上手な場合もあるのです。
そんな生徒は心のグラデーションの幅も広い。
心のグラデーション…例えば、真っ黒の部分が心の闇としましょう。
悲しい、辛い、苦しい、あるいは痛い。
そして、最も白い部分が心の明るさとしましょう。
楽しい、嬉しい、愉快、気持ちがいい、というような。
その幅が広いということは、感情の幅も広いのです。
生まれたての赤ちゃんの感情は2つだけ。
笑うと泣く、この2つのみ。
つまり、黒と白の感情しかなく、きわめて線に近い幅です。
しかし、大人になるにしたがって様々な感情や情感が入り交じり
複雑化して、黒から白に向う幅がどんどん広がっていきます。
これが、心のグラデーション。
様々な種類の感情が豊富に心に存在していること。
悲しみから喜びまで沢山の段階の感情を持っている事。
そうすると物事や人の心をキャッチする能力にも長けます。
総じて、線の上手な生徒に比べ、
グラデーションが上手い生徒の方が感受性が強いように
思われます。
ただ、若い場合は心の揺れが安定せず、ブレも起こります。
ですから、線を描くと同じようにブレます。
反対に線のきれいな生徒は心も安定してブレません。
黒と白の、つまり悲しみと喜びの感情の境界が明確です。
複雑な情感もなく悪く言えば単細胞。
しかし、単細胞にも利点があります。
細胞が単純ですから迷いがありません。
迷いがないので、結論も早く仕事もテキパキ。
そして何よりも、線が伸びやかで大らか!
かくも心とテクはシンクロしているのであります。
そこで教える側としては、線派には心の幅を広げるように。
グラデーション派には心のブレをなくすように指導しています。
が、短期間でそれらを習得するにはおのずと限界があります。
少なくとも、それらに気付いてもらえば、その内いつかは線も
グラデーションも自在に操れるかと思ってます。
グラデーションの幅が広く、伸びやかな線を描ける事。
感性豊かな心を持ちながらも、大らかである事。
これが生徒達から学んだ事であり、
私クシ自身のこれからの目標でもあります。
人生も仕事もまだまだ修行が足りません。
投稿者 tadashi : 09:59 | コメント (0) | トラックバック
2007年08月08日
したたか肌、攻めの洗顔 守りの洗顔

今回は美容のお話でございます。
美容についての直接的なお話をするのは、
ひょっとして今回が初めてかもしれません。
本業の話となると、何だか専門的データばかりになって、
読む側はもちろん、書く側も退屈してしまいそうなので、
敢えて避けておりました。
そこで、今回は私クシ自身の経験に基づいた洗顔法についての
お話でございます。
自分自身の事となると、少なくとも書く側は退屈いたしません。
さて、いきなり自慢気に聞こえ、恐縮でございますが、
「お肌きれいですねぇ、ツルツルッ!」とよく言われます。
「いえいえーそんなことはないですよ」と平静顔で答えますが、
内心は、一瞬フゥーと立ちくらみする程に全身喜びで満ち溢れます。
男前ね、カッコイイね、なんて嘘八百のお世辞を言われるより、
よほど嬉しゅうございます。
確かに、この年代のオヤジにしては
シミもシワも少ない方かもしれません。
ゴルフもテニスもアウトドア活動も全く興味のない、
日陰大好きな乙女オヤジですから、比較的色も白い方。
しかし、新陳代謝は若い頃からかなり旺盛で、
表皮の上は常に油分でコーティングされ、
世間のオヤジ並みにテラテラと自然発光しております。
ツルツルとした肌に見えるのはそのせいで、
特に滑らかというわけではありません。
テラテラとツルツルは全く別物。
テラテラは視覚的な擬態語で、
ツルツルは触感的な擬態語でございます。
従って、テラテラしていてもツルツルしているとは限りません。
テラ肌とツル肌は似て非なるもの。
一見ツル肌に見える私クシも至近距離で見れば、
シワもシミもタルミもオヤジ相応にあり、
トラブルも人並みに起こっております。
それを、油分のテラ光りの反射で誤魔化しているだけの事でございます。
そのテラ光りのお陰で決まったように質問されるのが、
「どんなお手入れしているの?」です。
「いーえ、ほんとに何もしてないですよ」と、
これまた決まったようにお答えしますが、
もちろん大ウソ。
ビタミンC、B群、E、田七人参、コラーゲン等のサプリは、
毎日欠かさず、大腸強化のヨーグルトもたっぷり。
内側から美しく…の経口美容には特に気をつけております。
しかし、外側からのスキンケアは極めてシンプル。
洗顔後は化粧水をごく微量チョンチョンと塗るだけで、
ハイ終了。
パックもマッサージもせず、クリームも塗りません。
冬のお手入れもこれですべてでございます。
極めて単純、安上がり。
まあ、これは新陳代謝旺盛な脂性肌だからなせる技で、
乾燥肌の方が同じようにしたら、
日照り焼きの早明浦ダムとなりますから要注意です。
とは言え、洗顔にはかなり気を使っております。
我が家のお風呂には2つの洗顔石鹸がございます。
1つはコンビニ御用達の
男の洗顔料OXYパーフェクトウォッシュで380円也。
ああ!何とお安いこと!
もう1つは
敏感肌用のスーパーソフトタイプで、ちょっとお高い目の3500円也。
この2つの洗顔料を適時に使い分けております。
つまり、男の洗顔料は攻めの時、
敏感肌用洗顔料は守りの時。
まずは攻めの洗顔法。
洗い方にも、ちょっと裏ワザがございます。
湯船に入り、熱い目のお湯に顔を浸して角質層を蒸らし
充分にふやかしておきます。
その後洗顔。
手のひらで泡立てた泡をつけますが、
すぐに洗うのではなく、顔の上に泡をしばらく放置するのです。
時間にして30秒から1分位が目安。
その後、マッサージをする要領で汚れを落とします。
洗濯物の浸け洗いと同じ理屈でございます。
ふやかしているので、ゴシゴシしなくても
簡単に汚れも垢も落とせます。
これは一種のソフトピーリング手段。
表皮の上汚れや皮脂はもちろん、
毛穴の中の黒ずみまで根こそぎ落とします。
ついでに不必要な角質も剥ぎ取り、
新たな角質層の誕生を促します。
ゆすぎの時にキュッキュッと音がすれば大成功!
下から新品角質層がガンガン押し上げてきますので、
出来たてホヤホヤの日焼けのシミは数週間で薄まります。
要は肌を強引に活性させ奮い起たせるのです。
脱皮、ヘビの脱皮と同じでございます。
しかし、この攻めの洗顔法、気を付けなければなりません。
下からの角質が再生でき力のある時のみに可能。
体力がなく肌が弱っている時や季節の変わり目、
乾燥肌の方は御法度です。
逆効果でトラブルのもと。
その目安は肌のかゆみと赤味です。
かゆみが出た時や、いつもより赤味が多いと感じた時は、
攻めの洗顔は絶対厳禁。
死の砂漠肌となってしまいます。
肌に関しては、攻撃は最大の防御とはなりません。
こうなると、完全防御、守りの体制をとらなくてはなりません。
そこで登場するのが、お高い目の敏感肌用洗顔料。
泡立てネットで作り出したホイップクリームのようなきめ細やかな泡。
この弾力性のある泡でそろりそろりと洗顔。
角質層には触れず、上っ面の汚れだけを簡単に短時間で洗います。
少々の皮脂は残しておきましょう
