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【CASE OF 山下春美】
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■vol.1 プロローグ
約束の時間ピッタリにホテルのティーラウンジに現れた女性は、私の予想とは少し違っていた。
小柄だがスッキリと背筋の伸びた身体に、シンプルでセンスのいいスーツを着ている。思い切ってショートにした髪型がよく似合っていて、どこか少年のようなイメージを醸し出している。私を真っ直ぐに見つめる眼差しは、理知的に落ち着いていた。彼女を紹介してくれた友人が話してくれた、そんな修羅場を経験した女性のようには、とても見えなかった。軽く会釈して名乗り、私の向かいに坐ると、彼女はカフェラテを注文した。
「今回は、取材に応じてくださって、ありがとうございます」
「智代が勧めてくれたんです」私の差し出した名刺にチラリと目を落とすと、小さく彼女は微笑んだ。
「同じように悩んでいる人のために、私のお話しすることが少しでも役立つのでしたら、嬉しいです」
「もう、全部片は付いたんですか?」
「ええ。智代にはずいぶん助けてもらって。でもそのおかげで、お金のことも、あの人のことも、何もかもちゃんとできました」運ばれてきたカフェラテを一口飲んで、彼女は静かに語りはじめた。
■vol.2 恋愛そして結婚
山下春美は30歳。4年前に結婚した夫の啓介とは、当時勤めていた会社で知り合った。啓介は研究職、春美は総務部の派遣社員だった。あまり女性慣れしてるとは思えない、啓介からの不器用な誘いをきっかけに、2人はデートを重ねるようになった。知り合ってちょうど半年後、啓介は彼女に結婚を申し込んだ。春美は「イエス」と即答したわけではない。実のところ、かなり迷った。彼女にはまったく理解できない自分の研究のことをデートのたびに熱心に話す啓介。そんな彼を好ましく思いながらも、その世慣れない一途さには、一抹の不安を感じてもいたのだ。啓介に友人が少ない、というのも不安要因の一つであった。迷ったあげく、結局結婚を決めたのは、ごく単純な事実であった。それだけ啓介のことが好きだったのだ。燃えるような恋ではなかったが、春美が彼を好きだと思う気持ちは、しっかりとたしかな重みのあるものであった。何気ないときに見せる啓介の笑顔が、ペンだこのある彼の細い指が、少しハスキーな声が好きだった。春美にとって恋愛とは、静かにそういう「好き」を積み上げていくことだった。そしてプロポーズされたとき、その「好き」という思いの総重量は、結婚という結論にいたるのに十分なものであった。そしてもう一つ、春美自身は意識していなかったが、啓介が他の誰よりも彼女を必要としている、という事実も、大きな理由の一つであった。誰かに必要とされたい。この世界の中に、自分が必要とされる居場所を持ちたい、というのは、誰しもが無意識のうちに願っていることかもしれない。だが彼女が抱くその思いは、自分で思っているよりもはるかに強いものであった。思春期のころから、どことなく両親とは折り合いが悪いものを感じてきたせいもあり、高校を出るとすぐに、彼女は郷里からは離れた大学に進学した。以来ずっと、都会の片隅で一人暮らしをしてきた。その生活に特に不満があるわけではない。だが胸の中には、漠然とした孤独感が、いつも大きな存在として居座っていた。生きるのに少し不器用なところのある啓介は、その分、そんな彼女を必要とし、たしかな居場所を与えてくれそうに思えた。
■vol.3 しあわせに思えた結婚生活
結婚生活は、ドラマのように甘くはないけれど、幸せなものだった。すぐに娘が生まれ、友人たちからはハネムーンベイビーとひやかされた。そう贅沢をせずに暮らしていくだけなら、啓介の給料だけでも十分であったが、娘のおむつがとれるとすぐに春美も働きに出ることにした。綾香と名付けた娘の将来を思ってのことだ。
高校、大学とかかる学費のことを思えば、蓄えは少しでもあった方がいい。幸い、自転車で通える近所の会計士事務所に、パートで雇ってもらうことができた。週に5日。朝9時半から夕方の6時までの勤務である。その間、綾香は保育園にあずけた。平日に少し寂しい思いをさせている分、週末には親子3人でよく出かけた。ドライブに行ったり、近所の公園にピクニックバスケットをもって行ったり。生意気を言い始めた綾香はかわいい盛りで、そんな何気ない家族のひとときをひときわ楽しいものにしてくれた。啓介も娘が愛しくて仕方がないようで、仕事の疲れも見せず、週末の家族サービスには、積極的にいそしんでくれた。もちろん夫婦だから、ときに喧嘩をすることもあった。だがそれも、あまり弁の立たない啓介がムッツリと黙り込むのがいつものことで、さして派手な立ち回りにまでいたったことはない。何度か、啓介が自分の湯飲みを叩き割った、というのが、もっとも重大な損害であろう。お風呂は、ずっと夫婦で一緒に入っていた。セックスは、妊娠中以外、ほぼ1週間に1度というペースが生真面目に守られていた。3人とも健康には何の不安もない。控え目に言っても、幸せな家族であろう。春美はそう思っていた。そういう家庭を築いた自分を、そしてその協力者として、幸せを分かち合えるよき伴侶を選んだ自分を春美は秘かに誇りに思っていた。…啓介の暴力が始まるまでは。
■vol.4 暴力がはじまった日
夜の帰りが遅くなり、飲めない酒を無理に飲むのか、顔を赤らめてタクシーで帰宅する日が多くなってきたのは、春美も気がついていた。啓介の職場でもリストラが囁かれ、どうやら出向させられるメンバーに入れられてしまうかどうかの瀬戸際にいるらしい。それが耐え難いプレッシャーになっているのだろう。もともと、あまり挫折ということを知らずに生きてきた人だ。中高一貫の受験校から、ストレートで一流と呼ばれる大学に入り、一部上場企業に就職。研究職として、自分の好きな顕微鏡と試験管の世界に安住してきた。その世界から今、突然追い出されようとしているのだ。おそらく啓介にとっては、初めての挫折であろう。その日、帰宅した夫に、春美は言った。
「いいじゃない。平気よ、出向することになったって。お給料が少しくらい減っても、私だって働いているんだから、マンションのローンだってちゃんと払えるし」少しでも啓介のプレッシャーを軽減することができたら、という思いから口にした言葉だった。だが夫は、線の細い顔を強ばらせ、酒に赤く濁った目をギロリとむいた。
「おれが追い出されるのが、平気なのか、おまえは」
「そうじゃなくて。そうなっても大丈夫だって……」いきなり春美の頬で、バチッという鈍い音が弾けた。
首がガクンとのけぞる。平手で殴られたことに気づいたのは、一拍置いて、熱感のような痛みを感じてからだった。いったいどうして……。春美は狼狽し、混乱し、ただ怯えた。結婚してからはもちろん、つき合っていたときにも……いや、そもそも大人になってから、誰かに殴られたことなど一度もない。我知らず、痛みのせいとも、悲しみや怯えのせいとも知れない大粒の涙が、ボロボロおこぼれ落ちた。
「ご、ごめん、つい……」
その涙を見て我に返ったのか、啓介自身も、自らの暴力に怯え、混乱しているようだった。酔いも一気に醒めたように、顔の色が蒼白になっている。思いついたようにいきなり立ち上がった彼は、ふらつき、ソファーの角に足をぶつけた。だが痛む素振りも見せず、キッチンに走ると、濡らしたタオルをもって戻ってきた。きっちりと絞った冷たいタオルを頬にあててくれたのは、いつもの優しい夫であった。だから春美はあえて彼を責めなかった。あやまちとして許した。水に流し、忘れようとした。殴られたことに、暴力をふるわれたことに怯え、傷つき、怒りを感じていたが、いきなりあんなことを言った自分の言い方も、無神経で悪かったのだ、と思ったから。すんだことは、しかたのないことだ。むしろこれで、啓介の中にたまっていたイライラが抜けてくれたのなら、よしとしよう。根本的には、啓介は優しい人だ。今夜はよほど虫の居所が悪かったのだろう、お酒も入っていたし。これはたまたま非常に運悪く起きた、事故のような出来事なのだ。
■vol.5 破られた約束
だが、彼女のその希望的な思いは、あっさりと裏切られた。その一週間後、春美の勤める会計士事務所は、繁忙期で、特別に残業を頼まれた。綾香を事務所の応接室で遊ばせておいてもいい、というので、春美はその仕事を受けた。帰宅したのは、夜の10時過ぎだった。先に帰っていた啓介は、リビングに寝転がり、所在なげに、テレビのバラエティー番組を見ていた。お風呂にお湯が入っていなかった。そのことを春美は、ほんの軽い口調で咎めた。啓介が先に帰っていることは、ほとんどない。だからそのときだけは、彼がお風呂の用意をする。それは結婚当初からの、夫婦間での決めごとだった。
「家事を全部半分こしようなんて言ってないでしょ。だからせめて、決めたことくらいは守って」返ってきたのは、謝罪の言葉ではなかった。いきなり髪をつかまれ、引きずり倒された。
「今までどこに行ってたんだ!」
「だから仕事で遅くなるって……」
「嘘をつけ!男と遊び歩いていたんだろう!」顔を真っ赤にして、啓介は怒鳴った。
「事務所の男か?そうだろう?」
「そんなわけないでしょ」
だが夫は聞く耳を持たず、倒れている彼女を足蹴にした。腰を蹴られ、かばった腕を蹴られ、腹部を蹴られた。息が詰まり、動けなくなった。苦痛と恐怖にうちひしがれ、身体を小さく丸めて、うめくことしかできない。その妻の姿を見て、初めて啓介は我に返ったようだった。あわててかがみ込み、春美の背中をさすった。
「ごめん。ごめん、春美……」
春美はその手を払いのけ、思わず叫びかけた。咽喉をついて出ようとしたのは、恐怖の叫びだったか、怒りの叫びだったかわからない。だがその叫びをとどめたのは、綾香の存在だった。ここで春美が大きな声を出せば、寝室に寝かせた綾香が起きてきてしまう。まさか啓介が、溺愛している娘にまで暴力をふるうとは思わない。だがまだ幼い娘に、こんな光景を見せるわけにはいかない。パニックの中で、反射的に頭に浮かんだのは、もうこの人とは一緒に暮らせない、という思いだった。
逃げなきゃ。
とにかく、とにかく一緒に同じ屋根の下で暮らすことはできない。それは『離婚』という理性的な結論ではなく、もっと原始的で本能的な思いだった。この人と一緒に暮らすことはできない。涙がとめどもなく頬をつたい落ちた。春美の頭に浮かんだその思いをとっさに察したのだろうか。険しく尖っていた啓介の表情がふいに情けなく崩れた。
■vol.6 暴力のあとの謝罪
「す、すまん。どうかしてたんだ」オロオロと視線をさまよわせる。
春美の方を決して、真っ直ぐに見ようとはしない。
「リストラのことで、その、会社でうまくいかなくて」もともと口下手な夫が、必死に弁解の言葉を探す。
陸揚げされた魚のように、パクパクと口を動かすが、言葉はうまく出てこない。そんな夫の姿に、春美は逆に、ほんのわずかにだが、安堵してしまった。少なくとも、啓介はまったく人格が変わってしまったわけではない。完全に暴力的な人間へと変貌してしまったわけではないのだ。自らの身体をきつく抱きしめていた春美の腕の力がゆるんだ。
「本当にすまん。もう二度と決してこんなことはしない。だから……だから許してくれ」いきなり啓介はガバッとはいつくばると、フローリングの床に額をこすりつけて、土下座した。ゴツンと鈍い音がしたのは、床に頭をぶつけたのだろう。その音に、彼女の胸に渦巻いていた怒りや恐怖は、また少し殺がれた。
彼もそれだけ悩み、苦しんでいるのだ。パニックが少しずつおさまるにつれ、春美の胸の中に湧き出てきたのは、そんな夫に対する憐憫であり、そしていびつではあっても、愛情と呼ぶしかないものであった。それでもやっぱり、私はこの人のことが好きなのだ。夫として愛している。結婚前、恋愛中だったあのころのように瑞々しい感情ではないが、その思いは、一緒に暮らした日々の重みの分、もっと確固として確かなものであった。殴られ蹴られた体中が痛んだ。啓介が恐ろしい。突然理性のたががはずれ、暴力をふるう彼が恐ろしい。だがそれでも、自分の中にある愛情、積み重ねてきた彼への思いを最初からまったくなかったもののように断ち切ってしまうことができるだろうか?これは彼だけの問題ではない。夫婦の危機なのだ。ならば悩みを共有し、一緒に解決していかなければ。彼は今、私を必要としているのだから。今までのどんなときよりも強く。「約束して」涙をぬぐって、春美は言った。
「もう二度と、どんな暴力も振るわない、って」
「約束する、約束するよ!ああ、ありがとう、春美」
彼女は許した。今度こそ、二度と同じことは起きないと思ったから。
■vol.7 エスカレートする暴力
たしかに同じことは起きなかった。次に起きたのは、もっと悲惨なことだった。3日後、彼女は鼻の骨を折った。発端は些細なことであった。夕食の鮭が少し塩辛い、と文句を言った啓介に、スーパーで「甘塩」と表示されていたものを買ったのだから、私のせいではない、と春美が反論したのだ。啓介はサッと顔を紅潮させ、いきなり食卓の脚を蹴りつけた。驚いた綾香が、ワッと泣き出す。
「暴力はふるわないって、約束したじゃない!」
思わず叫んだ春美の顔面に、啓介の拳がとんできた。不器用だがまったく手加減のない男の一撃に、春美の鼻骨は折れ、鼻血がドッと噴き出した。例によって、その血を見て我に返ったのか、啓介はひたすら低姿勢に謝った。綾香の前で殴るつもりなどなかった。ただ、つい当たり所が悪くて……。だがこのときは、彼の言葉はもう、春美には聞こえていなかった。啓介は約束を破った。鼻からしたたり落ちる血は恐ろしいほどで、痛みも激しい。だが何にもまして許しがたいのは、綾香の前で暴力をふるわれたことだった。
啓介は約束を破った。悔しさ、そして悲しみのあまり、彼女の耳には、どんな謝罪の言葉も届かなかった。鼻血がなんとかとまると、素早くボストンバッグに着替えを詰め、むずかる綾香の手を引いて、家を飛び出した。一人暮らしをしている学生時代の友人に電話を入れ、綾香と2人、その日は泊めてもらった。やってきた友人の顔を見て、大下智代はさすがに驚いたようだった。だが彼女らしい賢明さで、その腫れ上がった顔を話題にはせず、黙ってワインを勧めた。アルコールは好きではなかったが、このさい、麻痺させてくれるものなら、何でもありがたい。そう思って、勧められるままに飲んだ。ワインが回ると、春美のは鼻ズキズキと痛んだ。だがその分、心はわずかに軽くなったような気がした。学生時代から、智代には何かと世話になってきた。恋愛のこと、仕事のこと、どんなことでも、彼女は姉のように親身に聞いて、的確なアドバイスをくれたものだ。この信頼できる友人に、全てを話そうと思った。彼女が何も言わなくて、おそらく察してはいるだろうが、夫から受けた暴力のことを全て告白し、これからどうすればいいのか、相談したかった。何度も何度もそうしようと思った。だができなかった。恥ずかしかったからだ。
■vol.8 さまざまな葛藤
なぜ、甘んじて殴られていたのか、と彼女なら言うだろう。それがたまらなく恥ずかしい。自分は暴力的に虐げられるのが当然の、不出来な女であったのか。もしかしてもしかしたら、智代だってチラッとはそう思うかもしれない。それが恥ずかしい。女性に暴力をふるうような男を夫に選んでしまったことも恥ずかしい。まさか智代が彼女の愚かさをなじるとは思わないが、さっぱりとして裏表のないぶん、彼女のもの言いはズバズバと直線的で遠慮がない。智代から見れば、春美は結局、愚鈍で優柔不断なだけの人間、ということになってしまうかもしれない。いろんな羞恥心が理不尽に入り混じり、彼女のプライドをずたずたに傷つけていた。自分のことがひどく惨めで卑しい人間のように思えた。殴られても当然の人間のように。春美のそんな思いを察したように、智代が言った。
「まあ、その鼻のこと、話す気になったら、私の耳は24時間待ってるから」
翌日、仕事を休み、病院で診察してもらった春美は、鼻骨が折れていることを知らされて、あらためてショックを受けた。自分が受けた暴力のすさまじさを知ったのだ。春美の頭に初めて「離婚」という言葉が現実味をもって浮かんだ。
啓介と別れる。
だが別れてどうする?
働いているとはいえ、あんなパートの稼ぎで、綾香を育てていくのは無理だ。これから学費だのなんだのと、いちばんお金のかかる時期なのだ。綾香と2人、どこかアパートを借りて暮らすとしても、家賃や光熱費を払った上に、さらにそんなお金を出せるだけの稼ぎはない。だからといって啓介にあずけることなどできない。妻である自分に平気で暴力をふるう彼が、娘にどんな仕打ちをするか、考えただけでもゾッとする。啓介は娘を溺愛している。とはいえ、もはやそれが歯止めになるのかどうかすら、判断できなかった。もちろん智代の部屋にずっといるわけにもいかない。実家に戻る、という選択肢も頭をかすめた。無理だ。疎遠になっているとはいえ、綾香可愛さに、喜んで迎えるとは言ってくれるだろう。だが両親の暮らす小さな公団住宅にそんなスペースはない。それに父は最近病気がちだとも聞く。とても娘を連れて転がり込めるような状況ではない。どうしようもない。無計画に家を飛び出した親子2人には、どこにも行く場所がなかった。いや、そもそも自分は本当に離婚を望んでいるのか?春美の中で、小さな声が囁いた。リストラされてしまう夫を捨てることを。頼る人もなく一人で、これからの人生を生きていくことを。正直に言えば、答えはノーだ。望んでいることはただ一つ。元に戻ること。啓介が暴力などふるわない、あの平和な家庭を取り戻すこと。そして親子3人で、仲良く平穏に暮らすこと。彼女は心からそれを望んでいた。大それた願いではないと思う。かなわぬ願いではないだろう。ごくあたりまえの、つつましく、ささやかな願いではないか。ただその願いをかなえる方法さえわかれば……。結局、自分が悪かったのかもしれない。思いがたどり着くのは、いつもそこだった。
もっとちゃんと啓介のことをわかってやり、会社のことで悩んでいる彼に、暖かく神経の行き届いた対応をしてあげてさえいれば、こんなことにはならなかったはずだ。妻として、あまりに彼に甘え、無神経に接してしまっていたのではないだろうか。
■vol.9 もう一度やり直そう
(だとしても、あの暴力はひどすぎる)心の中で、そう呟く声もある。彼女の心は迷路に迷い込んだように、出口を見失っていた。啓介が訪ねてきたのは、そんなときだった。
「戻ってほしい」啓介はそう告げた。もう一度やり直したい。昼間の太陽の下、ネクタイを締めスーツを着込んだ素面の彼は、とてもあんな暴力をふるった人間のようには見えなかった。喫茶店で彼女の前に坐っているのは、ただの生真面目なサラリーマンだった。自分にとって、出向させられるかもしれない、ということがずっと大変なプレッシャーであったこと。でも今は逆に、出向が正式に決まって、前向きに割り切ることができた。だから、迷惑をかけたけれど、もう二度とあんなことはしない。綾香を片親の子にはしたくない。
肩を震わせ、人目もはばからず、子供のようにしゃくり上げながら、訥々と彼は語った。その姿は情けなく、惨めったらしいものであった。ひたすら無防備で、エリートらしさのかけらも感じられない。そんな啓介を憎むのは無理だった。
この人は悪い人じゃない。春美は思った。私がいなければ、この人はダメになってしまう。今度こそ、彼は心から反省しているように見える。やり直したいと心から願っているのは、自分だけではないのだ。結局、綾香を連れて、彼女は戻ることにした。もう大丈夫だ、という希望もあったが、それしか道がない、というのも現実であった。だが残酷な現実が、彼女に牙を剥くのに、さして時間はかからなかった。しばらくは、啓介ももとの優しい夫であった。積極的に家事を手伝うようにすらなった夫を春美はごく単純に信じかけた。この人は、変わろうと努力しているのだ、と。だから啓介の酒量が増えていっていることには、漠然とした恐怖感を覚えつつも目をつぶった。何も言わず、見て見ぬ振りを続けた。対人関係に不器用な啓介は、新しい出向先で、浮いてしまったのだろう。それは容易に想像できることだ。だが春美には、ただ彼がその困難を乗り切ってくれるよう、せっかく取り戻せた家庭の平和が壊れぬよう、願うことしかできなかった。
■vol.10 頻度と激しさをましていった暴力
願いはある日、破られた。また啓介が春美を殴ったのだ。そして一度始まってしまった暴力は、日を追うごとに、頻度と激しさを増していった。週に1度くらいのことであったのが、やがて3日に1度になり、すぐにほとんど毎日の日課のようになった。食事の用意が遅い、と言っては春美を殴り、気に入らない目つきをした、と言っては、ごくあたりまえのように彼女を蹴った。恐ろしいことに、彼女もいつしかその状況に馴染んでしまっていた。殴られること、蹴られることが日常であり、そこから抜け出さなければならない、という思いが、むしろ非常識なことのように感じられてしまうのだ。身体中に痣が絶えないため、サングラスが手放せなくなった。仕事先では、目が光に過敏になってしまったので、という苦しい言い訳をしてサングラスの着用を許してもらった。娘の表情が日々、暗く曇っていき、ちょっとした物音や、啓介の何気ない仕草にも怯えるようになってしまったのは、わかっている。
だがどうすればいい?
山下春美はいつしか、典型的なドメスティック・バイオレンスの被害者になってしまっていた。
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